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1 京都天橋立大会
2 伊勢神宮研修会
3 アビハイル師セミナー
4 2010年総会研究発表
5
新会長就任あいさつ
6 いかにして始まり、続いてきたのか
7
2008年一つ物祭り大会報告
8 機関誌(創刊号)
9
機関誌(大会10年の歩み)
10 日本のイスラエル
11 会則役員
12 会員募集(お申込)
13 掲示板(声)
14 研修センターはどんなところにあるの?
15 研習(研いで習う)会内容
16 雲の柱
17 同祖論関連の本
18 TAPE/CD/MP3リスト表と申込書
19 イスラエルと日本の類似
20 伝道切り口一考
21 音声メッセージ
22 English Version
23 リンク
    
    
日本ルーツシリーズ
@神道のルーツは古代イスラエルか? 小石 豊

Aお神輿とイスラエルの契約の箱 小石 豊

B神社とイスラエルの神殿 久保 有政

Cお正月とイスラエルの過越の祭り 小石 豊

Dわが民族の心の故郷
 1億2千万の私たちはどこからきたのか?
 畠田 秀生



 @神道のルーツは古代イスラエルか? 小石 豊
 年が明けると、日本列島至るところ善男善女の大群衆が敬虔な思いをこめて神社にお参りにでかけます。
その数なんと8千万。いやそれ以上!大晦日から神社への道路は車の渋滞。日本人全体の3分の2を超える数です。
「今年こそは良い1年でありますように。」と柏手を打ち、頭をさげます。
平素は信仰に無関心のように見えますが、この時期だけは国中熱心な信者で溢れます。
日本人と神道は、建国以来連綿と続けられてきました。

 その神道の中心、伊勢神宮がここに安置されてから2千年。
キリストの誕生と丁度同じですが、神道そのものはそれ以前からあったわけで、日本民族存在の心のよりどころとして今も息づいています。
20年毎の式年遷宮は1300年前から数えてすでに61回。
シンプルな建物にはいつも檜の香りがただよい、今日も石畳を歩く音が聞こえています。

 「神道は弥生文化をもたらした渡来人とともに大陸から渡来してきた。」というのが考古学者の大方の見解です。
縄文時代の神話も入り込んでいますが発生期は弥生時代でした。
この宗教の特徴は無教祖・無教義・無戒律・無偶像。天皇家とともに国民と深くかかわっています。
祭儀は非常に伝統的で行事重視であり、それを保つことに強い意義と目的をもっています。

 このように高度に整えられた宗教が、この列島で自然発生的に発生し育ったとは考えられません。
文明の発祥地であるメソポタミヤ、エジプトかイスラエルからもたらされたと思われます。

 今から70年程前、小谷部全一郎は、古代日本にイスラエル人が大挙して渡来し、国家意識や天皇制や神道を植えつけたに違いないと考えました。
その根拠として、紀元前700年代にイスラエル人の一部が国を追われ東に移動したこと。
イスラエルの風俗習慣・言語・宗教性・民族意識など、日本のそれが非常に似ている点をあげています。

 下の『神道と古代イスラエルの比較』は、その論旨を表にしたものです。
彼は今まで説明できなかった神道のすべてが、旧約聖書ならば充分説明できると語りました。
神道と古代イスラエルの比較
項目 神道 古代イスラエル
禊ぎ・清め 神を祀ったり喪があけた時や大嘗祭の時 祭司は衣服を洗い水浴びる 民数記19.7
鳥居 神社の入口の二基の柱、上部に横木を渡す 柱を本堂の前左右に建てる U歴代誌3.17
神殿の檜材 神殿の造営は必ず檜材、屋根は杉材 ソロモンの神殿も同じ Uサムエル5.11
柱は堀建て 屋根を支えている両方の柱は地より棟まで 幕屋の柱も掘っ建てで棟まで達している
高き所 古代から高い所に城(シロ)を築いた シロに会見の幕屋を建て ヨシュア18.1
宣言 天照大神「まず豊受の神を礼拝せよ」 ソロモン「まず神殿造営を」T列王記7.1
厚板の塀 鳥居を起点に四方を瑞垣の塀で囲う 幕屋は布、神殿は厚板の塀 T列王記6
神殿の構造 拝殿と奥殿、木材を重ねた階段 聖所と至聖所、木材の階段 T列王記6
榊の枝 榊の枝を振る清め、玉串の神前への供え物 らい病の清めヒソプを振る レビ14.6
獅子の像 石像の雌雄1対の獅子、獅子舞 神殿の獅子像や王座の脚彫刻 T列王記7
しめ縄 しめ縄を神聖な場所や器具、家などに張る 測り縄で巻いて30キュピト T列王記7.23
自然石 伊勢神宮の石垣など自然石を用いる 祭壇は切石で築かない 出エジプト20.25
石をまつる 鹿島神宮や主石神社の御神体は石 石を立てて誓約 創世記28.16 31.44
柱は神表示 この三柱はみな独神なりまして 天の御柱 昼は雲の柱、夜は火の柱 出エジプト13.22
雲は神臨在 神は雲の上におられる 雲上人など 神臨在の栄光の雲満ちた エゼキエル10.3
白を尊ぶ 皇室や神社の衣服は純白が用いられる 白い布、白亜麻布 伝道の書9.8
塩をまく 葬儀後の清め、神殿の塩盛、相撲の塩まき 穀物の捧げ物に塩 祭司と塩 レビ2.13
屍を忌む 汚れに触れた者は厳しい禁制の後清められ 屍に触れた者は七日間汚れる 民数記6.6
お守り札 家に張ったり腰に下げたりする 玄関右の柱に小箱付ける 出エジプト13.9
手洗い盤 神社の入口にあり水をたたえ手洗い口濯ぐ 幕屋と祭壇の間の洗盤 出エジプト40.7
神社にはどこでも鳩がいる 動物犠牲の1つに1羽の鳩 レビ12.8
賽銭箱 賽銭箱は故実に基づく造営ではない 神殿経費捻出以前はなかった U歴代誌24
神酒と酒宴 神酒として欠くことのできない供え物 注ぎの捧げ物ぶどう酒 出エジプト29.40
初穂の祭り 11月の新嘗祭は新穀を捧げて祀る大祭 初穂の7週の祭り 出エジプト29.40
拍手 神社参拝や約束事で手を打つ 喜びの表現 油を注ぎ手を打った U列王記11.12
お辞儀 身を屈め頭を下げ神を礼拝し人に礼をする ヤコブ7回地に伏してお辞儀 創世記33
祭りと御輿 祭りでお御輿を担ぎ熱狂し踊る風習の継承 ダビデは契約箱の前で踊る Uサムエル6.12
神楽舞 上代の神楽と楽器は神話によく出てくる ミリアムはタンバリンで 出エジプト15
 あなたが聖書をお持ちでしたら、どうぞ旧約聖書を開き、表の下段に記されている引照に従って調べてください。
長い年月をかけての民族移動や世代交代で伝統に変化が生まれ、また他宗教の影響があったとしても、古代イスラエル宗教が神道の中で保存されていることに驚かれることでしょう。
 聖書は失われたイスラエル人が、終わりの日に再び出現し、ユダヤ人と合体して12部族を完成すると預言しています。
そして今が終わりの日です。
 日本人が神道を愛する姿は、そのイスラエル人が真の神を見失ったものの、故郷を忘れることができず、記憶したわずかなものを形骸化した宗教という形で守ることに意義を見い出そうとしているように見受けられます。 

 旧約聖書はメシア(救い主)が来ることを預言しました。
そしてイエス・キリストが来られました。
しかしユダヤ人はこのお方を拒否しました。
そこで救いがユダヤ人に限らず、全て信じる人々に及びました。
それが新約聖書の教えです。
 『すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ロマ2.23、24)
 『わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。』(ヨハネ5.24)
 このように聖書は私たち日本人とは縁のない遠い外国の教典ではなく、仏教よりももっと近い、日本人の心の奥深いところで共鳴する、驚くべき真理なのです。
そこでまず旧約聖書を深く学ばれることをお勧めします。  

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   Aお神輿とイスラエルの契約の箱  小石 豊


 神道の神事が、旧約聖書の神事やできごとと類似しているという指摘は、神道関係者のあいだで早くからささやかれてきました。
一方、クリスチャンは毎日聖書を読み、賛美を歌い、お祈りをします。
その中で旧約聖書を読んでいると、日本の風俗習慣と似ているところが多くあるので、不思議に思ってきました。

 『お神輿』は夏や秋の風物詩。お祭りのメイン・イベント。
その日になると、若い衆が笛や太鼓に合わせ、神輿をかつぎ、ワッショイ、ワッショイと町中を練り歩きます。
山車でひっぱるもの、海や川に入るものもあります。
日本全国にいったいどれだけのお神輿があるのでしょうか。
大変な数でしょう。
お神輿は場所によっていろいろ違いますが、原型は等身大の箱に2本のかつぎ棒が通り、屋根には鳳凰が舞っている形をしています。

 ではこれはいったい、誰が、いつ、何の目的で始めたのでしょう。
箱は何を象徴しているのか、なぜ鳳凰が舞っているのか誰も説明できません。
すべてご先祖様から伝えられてきた神事であることしかわかりません。
日本人の先祖の多くが大陸から渡来してきたとしたら、アジアの近隣の国に同じような風習があってもいいはずなのに、どの国にもありません。
ところが驚くなかれ。これが唯一イスラエルにあったのです。


 
 旧約聖書には『契約の箱』という神器が出てきます。
それはアカシヤ材に純金を覆って作られ、大きさは等身大で、四隅には金の輪が取り付けられ、アカシヤ材の棒が2本、金で覆われ、輪の中を通してありました。
箱の上には『贖いのふた』があり、1対の『ケルビム』(天使)が翼を広げてそのふたを覆っていました。

 これはイスラエルがモーセに導かれて荒野を放浪中、シナイ山のふもとで神の指示のもとに製作されたもので、彼らが行進するときには、必ずこの契約の箱を先頭に行進しました。(出エジプト25)
いわば神の臨在を象徴する重要な神器でした。

その後ヨシュアによって約束の国にはいるとき、契約の箱をかついだ祭司がヨルダン川にはいると、水はせき止められ、全員が渡り終わるまで箱は川の真中に止まっていました。(ヨシュア記3)

 その後ダビデ王が、この箱をエルサレムに運び入れようとして牛車に載せた所、神の聖なる方法でなかったため神罰が起こり、箱に触ったウザが即死しました。
ダビデは恐れて神にお伺いをたて、祭司の肩にかつぐことを教えられました。

 やがて契約の箱は祭司にかつがれ、人々の熱狂的な叫び声と踊りの中でエルサレムに運びこまれ、ダビデ王も感激のあまり、人民の前で踊りました。
そして人々に輪型のパンやなつめやしの菓子やほしぶどうの菓子が振る舞われました。(Uサムエル6)

 今日、契約の箱は行方不明になっています。
預言者エレミヤがエルサレム陥落のとき荒野の中に隠したといわれていますが、さだかではありません。
箱の形、ケルビムと鳳凰、2本の棒、担ぐ作業、川や海に入る、山車にひかれる、喜びの祭りなどなど、まさに日本のお神輿のルーツを見るようではありませんか!

 契約の箱には『三種神器』が入っていました。
それはモーセがシナイ山で唯一の神から授けられた十戒の2枚の『石の板』、祭司を決めるとき立てた杖に一晩で花や実が付いたといわれる『アロンの杖』、40年間荒野で食べた『マナの壷』です。

 世界広しといえども、イスラエルの他に三種神器を持っているのは日本だけです。
皇位の御璽(ぎょじ)として捧持され、宮中三殿といわれる賢所、神殿、皇霊殿には、伊勢皇大神宮の御鏡の写しがご分霊として鎮まっており、剣と璽は宮殿に奉安されています。
一般的にいわれる三種神器は、八咫の鏡(やたのかがみ)、草剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。

 イスラエルと日本の三種神器を比較しますと、十戒の2枚の石は心を、鏡は姿を見るためで、ともにそれが正しいかどうかを知る基準です。
アロンの杖と剣は形が似ています。
マナの壷と勾玉は違いますが、祭司が胸につけるウリムとトミンムという石の形が、不思議にも勾玉とよく似ています。(出エジプト28.30)

 このイスラエルの契約の箱や、三種神器という民族継承の最も重要な神器が、形を変えているとはいえ、日本においても宗教的、国家的最重要な器具として存在している事実に注目しましょう。

 紀元前200年から数百年にわたって、大陸から渡来した強力な集団によって始まった弥生時代に、初めて国家意識が生まれました。
その意識をもたらした集団が、古代イスラエル人だった可能性が非常に大きいのです。
もしかすると私たち日本人には、イスラエル人の血が、全部とはいいませんが流れているのかも知れません。
それですから旧約聖書の出来事や人物を学ぶとき、不思議な親近感を受けるものと思われます。

 ということは、聖書の神様は日本人にとって決して遠い神様ではなく、非常に親しみやすいお方であるということです。



 キリスト教会では契約の箱が等身大の生きたキリストを象徴していると解釈しています。
アカシヤの木はその人性、金は神性、輪は神の愛、肩でかつぐことはその清さ、箱は神の守りと保護、ケルビムは神の尊厳さ、贖いのふたは十字架で流された血による贖いを示しています。
三種神器では、十戒はキリストが生きた律法であること、杖は導くお方、マナの壷ではいのちのパンを表しています。

 「キリストはすでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えればこの造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によってただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9.11、12)

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B神社とイスラエルの神殿 久保 有政

 日本の神社を調べてみると、古代イスラエル宗教によく似たものが非常に多い、という興味深い事実に気づきます。
「神社と古代イスラエル宗教と、一体何の関係があるのか。」
という方もおられるでしょう。
しかしこのことは古くから、少なからず人々の間で論議されてきたことなのです。

 たとえば神社の構造です。神社は、礼拝をする拝殿と、御神体を安置する本殿とに分かれています。
イスラエルの神殿も、中は聖所と至聖所と呼ばれる2つの場所に分かれていました。
神社で一般の人々は拝殿の前で祈りますが、イスラエルの神殿でも聖所の前で祈りました。
ふつう神社の拝殿には一般の人ははいれません。
まして本殿にははいれません。
同様にイスラエルの神殿では聖所には祭司のみがはいり、至聖所は大祭司が年に一度だけはいる神聖な場所でした。

 本殿は拝殿よりも一般に少し高い位置にあり、イスラエルの神殿も、学者によれば至聖所の床は聖所の床より少し高い構造になっていました。
 神社の造りには幾つかの種類があり、これはどの神社にも共通しています。
とくに住吉大社の住吉造りなどは、形や構造がイスラエルの神殿や『幕屋』とよばれた移動可能な神殿によく似ています。

幕屋の内部は常に赤い色でしたが、神社も朱色で塗られたものが多くあります。
鳥居も朱色で塗られています。
これはイスラエル人が出エジプトのとき小羊の血を入口の鴨居と2本の門柱とに塗り、赤く染まったことを連想させます。(出エジプト記12.23、36.8)

 神社内部の庭にはふつう手水舎(てみずや)があります。
これは参拝の前に口をすすぎ手を洗って禊ぎ(みそぎ)をし、心身を清めるためのものです。
同様にイスラエルの神殿においても内庭に洗盤、または青銅の海と呼ばれる禊ぎの場があり、そこで手と足を洗い、心身を清めました。(出エジプト30.18〜19)
神社では灯火をともすことが多くあり、特に伝統ある神社はそうです。
イスラエルでも常に灯火が掲げられていました。(出エジプト27.20)

 神社にはまた賽銭箱があります。神殿にも賽銭箱(献金箱)がありました。
南王国ユダのヨアシュ王の時代にそれが置かれるようになったと旧約聖書に記されています。(U歴代24.8)

 神社は基本的に、狭義での偶像が置かれないということにも注目すべきです。
仏教で仏像が盛んに造られ、寺に置かれたのに対し、神道では神々の彫像が造られませんでした。
イスラエルの宗教は唯一の神のみ礼拝します。
偶像礼拝はモーセの十戒で厳重に禁止されています。(申命記5.8)

 神社の拝殿の前には狛犬が2頭立っていますが、頭部が毛に覆われており、あれはどう見てもライオンのようです。
獅子は昔日本には一頭もいなかったのに『獅子舞』の文化があるのは、いったいなぜでしょう。
イスラエルの神殿や王宮には獅子の像が礼拝の対象としてではなく置かれていました。(T列王記7.36、10.19)

 神社はたいてい山の上に建てられます。山と信仰は深い関係にあります。
これはイスラエルの宗教でも同様で、モーセはシナイ山で十戒を授けられ、神殿はモリヤの山に建てられていました。
 神社が檜の木造建築であるように、イスラエルの神殿でも石材とともに大量のレバノン杉材が用いられ、壁や床や天井に至るまで内部は木材で覆われていたのです。
また要所要所が金で覆われたことも同じでした。(T列王記5.6、6.9、20〜30)

 神社の屋根は山の形というよりは天幕テントの形をしていますが、これは移動神殿『幕屋』とそっくりです。(出エジプト26.7)
お寺と神社を区別する鳥居は、イスラエルの神殿の入口の2本の太い柱を思いださせます。

このように神社の建造物に限って考えてみてもイスラエルの宗教とそっくりなのはなぜでしょうか?
大切なことは、古代イスラエル人が渡来して、日本文化形成に決定的影響を与えたのではないか、ということです。
もちろん以前からアジア全域の人々が渡来していましたから、他の民族の血と混合してしまいました。

しかし血縁以上に大切なのは、宗教的問題で、『日本建国の神はイスラエルを造られた神と同じである。』ということなのです。
日本人の生活・風俗・宗教に流れているものは、もともとイスラエルを造られた神から来た教えなんだということを私たちは理解して、まず旧約聖書が何を示そうとしているかを学んでいただきたいのです。



神殿は霊的にイエス・キリストを指しています。
彼は『生きた神殿』であり、その『神殿の礎石』でした。
「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Tペテロ2.6)
またキリストご自身が『犠牲の小羊』となられ、唯一の『大祭司』となられました。

 そうして「私を見た者は、父(天の真の神)を見たのです。」(ヨハネ14.9)といわれました。
このお方を見ていると、旧約聖書に顕れた多くの真理が、こんがらがった糸をほどくようにひとつひとつわかってきます。

 「救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」(ヨハネ4.22)
とキリストがいわれたように、日本人は古代イスラエルの宗教を知らないで守っていますが、やがてこれが明らかにされる時がきます。
そして、その日はもうすぐそばまできています。
この神秘な事実をさらに深くご理解くださることを願っております。
                   
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  Cお正月とイスラエルの過越の祭り 小石 豊

        元旦や 冥土の旅の一里塚
          めでたくもあり めでたくもなし


  『お正月』は玄関にしめ縄と門松、床の間にお供え餅、食卓はお節料理です。
大晦日は大掃除とごちそう作りに追われ、まるで特別なお客様が来られるのを待つかのようです。
そしてソバをツルツル食べながら年を越します。

 百八つの除夜の鐘が鳴ると非常に宗教的な、それでいて家庭的な緊張感に包まれて年が明け、何ともすがすがしい朝を迎えます。
みんな服装を整えて挨拶をかわし、お屠蘇やお雑煮をいただきます。

 三が日は家族そろってお宮参り。8千数百万人が一斉に国中の神社に初詣に行きますので、道路は大渋滞ですが混雑を恐れません。
後から後から人が押し寄せて、信心深く石畳を歩き、お社の前にぬかずき、大自然から聞こえてくる声なき声に満足し、柏手を打ち、頭をさげます。
平素の不信仰がまるで嘘のようです。

 1つは民族がこれほどまで清らかな思いで過ごすのはこの時期しかありません。
しかもこれが日本人特有の、礼儀正しい1年のスタートです。
この風習がいつごろから今のようになったのか、誰もわかりません。
先祖伝来の習慣として当然のように守られ、そのお陰で何千年も変わらない民族性が保持されてきました。



 ところで旧約聖書を読みますと、『過越の祭り』という祭りが出てきますが、それが日本のお正月と大変似ているので驚いてしまいます。
過越の祭りとは、エジプトの奴隷になっていたイスラエル人がモーセのよって解放され、エジプトを脱出したときに起こった数々の事件を記念し、ユダヤ人の間で厳粛に守られているものです。

 それは春の満月がこうこうと輝く印象的な夜でした。
イスラエル人の人々は神の命令に従って旅支度を整え、犠牲の小羊を殺してその血を玄関の鴨居と2本の柱に塗り、肉を家族や近所の人たちと分け合って食べていました。
突然エジプト中から悲痛な叫び声が響きわたりました。玄関に血の塗られていない家の、すべての長男(家畜に至るまで)が死の使いによって殺されたのです。
しかし血の塗ってあるイスラエルの家の長男は守られました。死の使いが血を見てその家を過ぎ越したからです。
この恐怖の中で脱出したのでした。(出エジプト12)

 それまでエジプトの暦に従っていた彼らは、脱出するとすぐ、その月『ニサンの月』をイスラエルの新年としました。
そのことで民族自立を確立したのです。
ニサンの月は日本の3、4月頃で、15日から(イスラエルの1日は日没から始まりますので、日本では14日夕方となります。
1週間が過越の祭りで、神はこれを『永遠のおきて』として守るように命じられました。

おきてとは法律というよりも暦と考えられます。
その暦を守り続けることが神とイスラエルの間の永遠の契約でした。
暦の基本は春の過越の祭りと秋の仮庵の祭りで、ユダヤ人はこれを守ることでその民族性を保持してきたのです。

 紀元前7百年代に一部のイスラエル人が偶像崇拝のため国を追放され、アッシリヤに連行された後、行方不明となりました。(U列王記17)
外典には彼らは神が命令された『永遠のおきて』を守るため、人の住んでいないところに行こうと決心し、すきを見て東に逃れ、アジア大陸のはるか彼方に集団で移動したと記されています。
彼らは偶像崇拝に陥ったといえども、その暦だけはしっかりと生活に根ざしていたものと思われます。

 日本人が伝統的にお正月を守ってきたその理由はわかりませんが、その考え方を植えつけたのが渡来してきた古代イスラエル人だったとしたら、私たちは知らずに永遠のおきてを守っていることになります。
(下の比較表をごらんください)

項目 イスラエルの過越の祭り 日本のお正月
1月15日 ニサンの月15日(三月頃)春の満月 昔の自然歴では15日が中心だった
松の内 過越の祭りは1週間 松の内は1週間
鴨居と2本柱 鴨居と2本の柱に血が塗られた 鴨居にしめ縄、2本の柱に門松
大晦日の大掃除 ※パン種を徹底的に除くため大忙し 新年を迎える準備の大掃除、昔は煤払い
宗教的緊張感 神が寝ずの番をされたことを感謝する 1年の無事を感謝し、除夜の鐘を聞く
非常に家族的 父は家族礼拝の中心、母は燭台に点火 一家の主人、父母が挨拶の中心
参拝に行く 国中がシナゴグ(会堂)の礼拝に行く 国中が神社へ初詣に行く
主食は種なし 種なしパン・マッツァーを1週間食べる 種のないモチを1週間食べる
苦菜を添える 15日は苦菜を添える 苦しみの象徴 七日目に七草がゆを食べる
料理 料理は出エジプトの旅支度を記念する お節料理は旅支度のような携行食糧

※祭りの間の1週間は家の中にパン種(イースト菌)が一かけらもあってはなりません。

 このようにユダヤ人が守っている過越の祭りとよく似た祭りを守っているのは、世界中を見渡しても唯一、日本人だけです。さらに日本のお月見や秋の収穫感謝祭は、イスラエルの『仮庵の祭り』に似ています。

 日本人は血筋の上では多くの民の混血民族です。
しかし弥生時代に、非常に優れた集団が大挙して渡来し、それまで国家のなかった列島に始めて国家意識が生まれたといわれています。
この渡来人が古代イスラエル人だったとしたら、彼らは聖書の神を信じていたが、そのお方を忘れ、宗教行事や風俗習慣の形だけが子孫に伝えられて、それが日本のお正月のような伝統になった、と考えられます。

 ということは聖書が示している真の神は異国の神ではなく、私たちにとって非常に近いお方なのではないでしょうか。
そう思うと聖書の学びが楽しくなります。



 イエス・キリストは最後の晩餐のとき、「わたしは苦しみを受ける前にあなたがたと一緒に、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや2度と過越の食事をすることはありません。」(ルカ22.15、16)といわれました。

 その過越の犠牲となった小羊は、十字架の上で人類のすべての罪を背負って犠牲となられた神の子イエス・キリストの姿を表していました。
「ましてキリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9.28)

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   Dわが民族の心の故郷 
   1億2千万の私たちはどこからきたのか? 畠田 秀生 

 外国に行ったり、また住んだりして日本が恋しくなる、また自分のふるさとが恋しくなる、そんな体験をしたことがおありでしょうか。
年をとればとるほど、その思いはつのるものでしょう。
日本は世界でも、最も年をとっている国の1つです。
そして、私たちの多くは、「私は、いったいどこからきたのだろう。」と心の中で尋ねています。



 柳田国男は、椰子の実が伊良湖岬に漂着したことから、祖先は何方から来たという壮大な仮設を唱えました。
また、藤村は西の遥かな彼方を思い巡らして作詞しました。
「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実1つ故郷の岸を離れて 汝はそも波の幾月・・・」
その柳田国男に師事した折口信夫は、大正9年、『妣(はは)が国へ、常世へ』という論文を発表して次のように言いました。
「10年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王ヶ先の突端に立ったとき、遥かな波路の果てに、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった。」

 古事記に、『妣の国』ということばが多く出てきます。
かのスサノオノミコトの条に見受けられ、日本書紀には、多く『根の国』ということばになっています。
今のことばでいうと、『母国』ということになるでしょう。
遠い私たちの先祖(みやお)たちは、この妣の国すなわち私たちの本国で生まれ、成長し、そこで死んだのですから、子孫の私たちが懐かしんで当たり前でしょう。

 鳥居竜蔵はこう言いました。「われらの遠いみやおたちは、大陸から来たもので、この本土は移住地で、本国は向こうにあるわけであります。」(妣の国・論集日本文化の起源)
日本人の心の中にひそむ源郷意識が、カミ(親、先祖)がやってきたもとの場所を探し求めさせるのでしょう。

 文献時代の初期のもののなかに、ひとぐに、ひとの国と書かれてあるのは、ひと(人)・ひと(他人、他国)という意味にとれるのですが、他国といっても未知の国ではなく、身近さを感じさせる国です。
空想の国としての異国、異郷を意味するものではありません。
なぜなら邪馬台国の本とか、日本人のルーツに関する本を出版すると、まず5千部は売れるとある出版社の編集長は私に話してくれました。
シルクロードや黒潮は日本人に地理的のみならず心情的にも親密さを覚えさせるものがあります。



 もう1つ、スサノオノミコトの話をさせてください。
イザナギノミコトが三柱のカミ(アマテラス、ツクヨミノミコト、スサノオノミコト)にそれぞれの国の統治を命じました。
しかし、スサノオが泣いてばかりいて自分の領地を治めず、そのため悪い神様の仕業が蠅のように起こり、ありとあらゆる悪霊が働き、災いがおこりました。

 イザナギノミコトは、「どういうわけで、お前は支配せよといった海原を統治せず、泣いてばかりおるのか。」と問いました。
スサノオは、「私のお母さんのいらっしゃるあの根の国の堅州国(堅固な根の国に行きたくて泣いているのです。」と釈明するのですが、イザナギノミコトは怒り、スサノオを追放したという記事が古事記にあります。

 スサノオがいった堅固な国というのは、歴史の古い、確固たる文化と宗教の花咲いた立派な国であることが伺い知れます。
さて、日本建国のとき、すでにそのような歴史を築いていた国はどこにあったのでしょうか。



 世界最古の書物『聖書』との関係を述べさせてください。
聖書は、日本の多くの人々が思っているような道徳書、宗教書ではありません。
ある国の歴史書のようなものなのです。
神様がおられることと、神様を敬い従うときにどういうことがおこるかを著した書なのです。

 そこで、明治時代に輩出したキリスト教の大先輩内村鑑三のことばを引用します。
 「日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは早くより学者の唱えたところである。かつてある有名な西洋人の人類学者が京都を歩きながら、行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人のあるを見て、指さしてこれを案内の日本人に示したとのことである。

その他、日本人の習慣の内に、ユダヤ人のそれに似たるもの多く、また、神道とユダヤ教との間に、多くの類似点ありという。
今回、米国の日本人排斥に対して、かの国の1派のキリスト信者が『日本人イスラエル説』を唱えて、大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。
日本人の敬神にユダヤ的の熱意あるは人のよく知るところである。

キリスト教の宣教歴史において、日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信じる。
宣教開始以来60年後の今日、キリスト教はすでに日本人の宗教となった。
キリスト教は他国において見ざる発展を遂げるであろう。
西洋人の宣教師が日本人を教化するあたわざるは日本人に宗教心が不足するからではない。
それが西洋人以上にはるかに多いからである。」
(聖書の研究誌1924年11月号)



 聖書はまた預言の書で、預言も含みます。
偶像の木や石の神を拝んで追放された古代イスラエル民族の一部が(申命記28.36)、終末の世には、地の果てから蘇って自分の足で立ち(イザヤ41.9)、神様の民となるといっています。
彼らは谷間で干からびた骨になっているが、イスラエル全家として墓が開かれるように蘇ります。(エゼキエル37)

 これは、国や民族へのメッセージです。
しかし、それが完成するためには、その国を構成する一人一人が神様の計画を知らねばなりません。
神様は私たちを愛され、ご自分の計画を教え、また実行する能力を与えるために、ひとり子なるイエス・キリストをこの世に遣わされました。
そして私たちの魂のふるさとを知る方法は、イエス・キリストの十字架上でのとりなしと、墓の中から3日目に甦えられた復活にあります。
どうか聖書の中にあなたの希望と、日本の希望を見つけ出してください。

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