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3 アビハイル師セミナー
4 2010年総会研究発表
5
新会長就任あいさつ
6 いかにして始まり、続いてきたのか
7
2008年一つ物祭り大会報告
8 機関誌(創刊号)
9
機関誌(大会10年の歩み)
10 日本のイスラエル
11 会則役員
12 会員募集(お申込)
13 掲示板(声)
14 研修センターはどんなところにあるの?
15 研習(研いで習う)会内容
16 雲の柱
17 同祖論関連の本
18 TAPE/CD/MP3リスト表と申込書
19 イスラエルと日本の類似
20 伝道切り口一考
21 音声メッセージ
22 English Version
23 リンク


 @正月の餅は日本の祝福

 A日本の礼儀

  B「君が代」日本の国歌
            正月の餅は日本の祝福

           聖書と日本フォーラム会長
           聖書日本キリスト教会牧師  
                畠田 秀生

 
 3年前の2004年、家内の母が逝った時、骨と皮だった。97歳。
1年ほど寝たきりだった。
今から4年前、私の母が旅立ったときも骨と皮だけだった。
96歳。彼女は10年間入退院を繰り返したが自分の家での大往生だった。
ふたりとも納骨時の焼けた骨は、小さな骨壷に入りきるくらいしかなかった。
哀れ人の結末、終着駅は栄枯盛衰、人はみな草のようでその栄えは、みな花のようで、草はしおれ花は散る。
死者を水で清める儀式のとき、私は「ありがとう、すまんね」が口癖であった寝たきりの義母の光り輝く魂を知るがゆえに、
横たわる醜い死体との対比をいやがうえにも思い知らされていた。

 体は滅びても魂は輝き天に昇る。
人の最期に立ち会うとき、国民こぞって正月元旦に神社仏閣に詣でて手を合わせ祈る姿にだれが異を唱えよう。
 無病息災、家内安全、商売繁盛は私たちの祈り、それも心からの神への願いである。

 10月、出雲大社前ホテルで「聖書と日本フォーラム」主催の
大会に出席した際、大社の絵馬を読んでみた。
「私と私にかかわりのあるある人が幸福でありますように」「○○子と△△男が結ばれますように」「よい人と巡り合えますように」という無数の切実な祈りがあった。縁結びの神さまはご多忙である。 正月に日本人は祈る習性を持っている。両手を胸にそして頭を垂れて祈る姿は日本の美である。
日本人には宗教はないという人もいる。いや宗教心は豊かであるという人もいる。両端から同じものを見た場合の言い得て妙である。


 私は40年、牧師をしてきて、日本人の宗教意識の喚起に努めて来たつもりだ。しかし、老人の棺おけから語る無言のことばにはとうてい及ばない。
まして若者が棺おけから無言に語るその語りかけは牧師が語ることばなどは貧弱な虫けらの鳴声で、それらは比較にもならないほど強烈である。

 人は人生の豊かさを願う。その度合いの大きさを呼び覚ますのは、結婚式のときより、葬式のときだ。
スタート時よりゴール時である。 だが私は日本人のスタートがすばらしいのだということをこの年の初めに喚起したい。
9千万人が1度にどこの国に、ある時期、同時にそれもみんな
一緒に祈る民があるだろうか。
それも夜中に正装(?)して出かけて祈る、そして同じものを食べる。
韓国、インド、中国、ヨーロッパの国々、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアの友人に尋ねてみた。
国中、一緒にはそんなことしませんという同じ返答であった。


 日本のパン 日本人の風習、極みとも言えるものについて書いてみたい。
それは正月のモチである。 モチはぺッタンコ、ぺッタンコと杵と臼で打たれて押しつぶされて練られてできる。
モチはその悲鳴の果てに私たちの口に入る。
そのモチの起源が旧約聖書にあるといえば、まさか!と言われるかもしれない。 「出エジプト」というイスラエル民族大脱走事件がある。
時は紀元前1500年くらい前、奴隷から解放された歴史上の前代未聞、空前絶後のできごとである。
その時、神は言われた。
「羊かやぎの血を家の2本の門柱とかもいにつける。その夜、
その肉を食べる。種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
あなたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟としてこれを祝わなければならない。」
この祭りは7日間行われた。仕事もしてはならない。最初の月の7日から14日まで。
 ユダヤ暦第1月のニサンの月(新暦の3月または4月頃)の14日目を祭りとして祝った。
旧約聖書レビ記23章5節に第1月の14日には夕暮れに過越しのいけにえを主にささげたとある。
イスラエルの民が正月に行う過越しの祭りは、ユダヤ暦の
正月、民族の祭りで種入れないパンを食べる。発酵させない小麦粉の輪型のパンである。
そのしきたりは12個のパンを一並びに6個ずつ2並びに置く。
12部族を象徴している。日本のおかがみは1並びに3個ずつ床の間に2並びに置く。


 アメリカでヘブル語を学び故郷の東北民謡にヘブル語で謡う歌があると発表した川守田英二氏は、日本語としては意味不明な民謡、囃子詞もヘブル語で解すると意味が通じると言う。

 種入れないパンのことをヘブル語(母音がない)MTshと書くという。モッチと発音するかもしれないが、現在はそれをマッツォと発音している。
麦のみ産するカナン(現在のパレスチナ)地方では、麦の
クラッカーを食べて昔を偲んでいるがエジプトでは米が産したので大元は米のパンということになろう。
それをパンと言わないで日本語では餅と言いその名の方が正式な名であるし、マッツォに発音上も近い。

 さて、エジプト脱出時イスラエルの民は、鴨居に子羊の血を
塗り、種入れないパンを食べて出発した。その数約300万人ともいわれている。
そしてそれから自分たちの約束の地をめざして旅するのだが、まわり道して40年間さまようのである。
 だがしかし、その間荒野を旅する者たちすべてが健康であったという。
これは信じられないほど驚くべきことではないか。彼らは40年間、第1の月に発酵させない純粋の米のパン≠キなわち
「マッツォ」を食べ続けていたのだ。
 
 健康は人生を豊かにする条件のひとつというより、そのもの
ずばりだろう。人の願いは体も心も健康であること、これを日本の民は正月元旦に祈る。
その効力の原因となることを知らないで毎年やっているとすると、世界で平均寿命第1位というその記録の意味もなるほどということになるのかもしれない。
体のいやし 家内の母の体は見るも無残な骨と皮であったが心は輝いていた。「ありがとう」のその声は何にもまして美しい。

 イエスは「人はパンのみで生きるのはない。」と言われた。
パンで体の健康を維持し、神のことばで人は生きると言われている。そのパンがわたしだとも言われた。

 イエスは、過越しの小羊として、ニサンの月の14日午後十字架上で死なれ、16日の朝よみがえられた。
 過越しの小羊のほふられる種なしパンの日が来た。
その時イエスは、言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに
望んでいたことか」。
彼の流された血と身体こそが人類の罪やとがを贖う神への
捧げものであるというのだ。

 キリスト教には2つの儀式しかない。洗礼(水によるバプテスマ)と聖餐式である。
聖書は次のように言っている。 それからパンを取り、感謝をささげてから、裂いて弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」

 私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることであり、永遠のいのちと日常の生活での万病に効く薬と予防の働きをするのである。


 私たち日本人は、彼によって邪気が除かれ、健康を保つことができる。知らないで正月に餅を食べて祝っているが、そのルーツはこんなところにある。

 紀元前760年頃、イエスに関する預言をイザヤが言っている。
「彼は私たちの病を負い、私たちの悩みをになった。・・・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 私たちの多くは決して環境抜群のところには住んでいない。
東京も大阪も天の川など見られない。私の住む近く、伊勢志摩の
海岸でも今や大きな魚は釣れない。汚染されて伊勢海老も少ない。
それにもかかわらず、日本の老人は若々しい。皮膚は滑らかだ。日本食の寿司が身体にいいのもその1つかもしれないが、
最大要因は「モチ」なのだ。
正月に食べるモチ。私は子供のころ、めでたい正月なのに、
なぜ7日間も冷たい膾の料理でモチばかり食べるの?と不思議に思って母に尋ねたことがある。母はその理由を知らなかった。

 メルギブソンのパッション この映画を私は封切りの日に、
ニュージーランドで見た。その強烈さに息をのんだ。
彼の身体が打たれたたかれ、骨の付いた鞭で裂かれていく
その様は、まるで蒸篭で蒸された米が、臼のなかでたたかれ練られていく様のようだった。
私たち日本人は、正月にモチを食べる。なぜモチを食べるのかその真意を問わず、ただ先祖からの慣わしだからという理由で
食べている。
イエスの体を食べている?とすると健康と長寿の恩恵のみならず世界でまれに見る平和と繁栄を掌中にしているのもうなずける。
これは、イエスが十字架上で砕かれた目的であった。私たちの病を負い、いやすためにその姿は見る影もなく打たれ、苦しめられた。
まるでモチがつかれている様そのものではないか。私たちが
知らないで行っている行事の中に人の知恵でははかり知れない力があるものだ。

 そのことを「聖書と日本フォーラム」というグループが伊勢志摩の地で学びを開始した。
今後参加者を募りながら、この活動にたずさわれることをこの上ない特権と受けとめて、日本人として日本の魂に触れて行きたいと思っている。

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     日本の礼儀

          聖書と日本フォーラム会長
              畠田 秀生

 日本は礼儀を重んじる国であり、日本国民にとっては切り離すことができないものである。
恩恵を受ければ感謝の念をもってそれに応える、これは自然の理である。
礼には礼をもって返礼する。尊き風習であり、その心は美しい。神に頭を垂れ、人におじぎをするのは最もすばらしい風習である。

 礼儀は形であると誤解されやすく、外面的つくろいであると誤解されやすい。
しかし、これは日本人の日本人たる真骨頂なのであって遠慮の徳の表れなのである。

 日本人は礼を欠くことを恥じとする。これは対面をおもんばかるからではない。謙遜の美徳を失うことを恐れる日本人の特性である。
これを失った日本人は、もはや日本人ではない。論議を好まないのは相手を傷つけたくない日本人のやさしさであって、理論より愛を重んじるからである。
真理を重んじるからであって、真理を主張することによって
ごり押しすることからは、何も生まれないことを知っている日本人の道徳性、倫理性、宗教性の深さを知っているが故の実である。
西欧諸国のいずれにも培われなかったものである。彼らの遠慮を知らない低級な風潮は、私たち日本人をして苦笑いさせていることをも気づかないほど、無知蒙味はもう論外である。

 私はあるとき、西欧人からお礼としてドル札を裸で手渡されたことがある。そのドル札を受け取るときの戸惑いを今もはっきり覚えている。
素直に受け取ることができずにどうしたものかとその裸の
ドル札の丸めた束をみつめていたものだ。
彼らの感謝の気持ちと、むき出しのドル札とは重なり合わないのであり、日本人にはとうてい理解しがたいことなのである。

 その渡し方と彼らのあっけらかんとしたしぐさを、日本人にまねしろと言ってもそれはとうてい及びもつかない。

 むき出しのドル札をお礼にもらっても、日本人は心から喜んで受け取れない。
「ありがとう」と言って素直に受け取る者は、日本人ではない。
私はノーサンキューと言ったが、彼らはそれをポケットにねじ込んで、感謝の意を表したと思っている。
それでもこれもお礼には違いないか、と思って遠慮しがちに
受け取ったが、ましてや日本人はその額が少なくとも「額が少ないです。もう少しください。」など殺されても言わない。
彼ら西欧人は、逆の立場なら「少ない。もう少しください。」と
平気な顔で言うのである。
それが何か悪いのかと言わんばかりに両手を広げて肩をすくめている。

 あぁ、この特性は神の子としてどちらがふさわしいかは、火を見るより明らかではないか。
どちらがキリスト教に則っているか。どちらがイエスの従者としての新しく造りかえられた者としてふさわしいか。

 日本人をして異邦人というなかれ。西欧キリスト教風潮として
自他とも認知している諸国の民をして、イスラエルと言うことなかれ。

 「これこそほんとうのイスラエル人だ、彼のうちには偽りが
ない。」といちじくの木の下にいたナタナエルに言われたイエスのことばこそ、今の日本人に投げかけられていることばではないか。

 今日本人は、礼という徳に付け加えてこう言うべきではないか。
「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と。

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           「君が代」日本の国歌
     
        聖書と日本フォーラム会長・事務局長
                畠田 秀生

「君が代」日本の国歌  ・・・へブル語?

 私の姉八十三才に「君が代」に別の意味があるという小石牧師から送られてきた「声石」八十号の記事を見せた。そしてその内容を一緒に読んだ。
すると姉が言った。 「だれかがどこかで君が代には別の意味があるということを聞いたことがある。」
それは、どこで誰がいつ?と尋ねても覚えていなかったが、確かにあると言い、それがヘブライ語なら、 「そんなら、私たちの先祖はイスラエルということになる。」とひとりつぶやいた。

こんな意味だそうだ。 「神の選民シオンの民は 選民として喜べ 人類に救いが訪れ 神の預言が成就した 全地にあまねく宣べ伝えよ 立ち上がれ、神を讃えよ」

ここで、国歌「君が代」の一つ一つのことばをヘブライ語で解訳されたものを中島氏の記述から。

 「神」を意味する「ヤ」、「ヨ」が「千代に八千代に」というフレーズに三回繰り返されている。
「シオンの民」を表現する「チヨニ」。ヘブライ語で救いを意味するISH「イシ」や、ヤウエーの神を象徴する「イワ」
また、物事が成就することを意味する「ナリッテ」など、繰り返し読むだけでも複数のヘブライ語が思い出され、ただならぬ予感がする。

「君が代」のフレーズは、ヘブライ語「クム・ガ・ヨワ」という三つの言葉に分かれる。
「クム」はヘブライ語の (koom、クム)が語源であり、立つ、または起き上がることを意味する。
(gaah、ガ)には、「クム」と類似した「立ち上がる」という意味だけでなく、「相手を誉め称える」というニュアンス スも含まれていることに注目。
そして「ヨワ」は神を意味するヤーウェーの発音が多少訛ったか、YHWHに任意の母音を付加したものだろう。

YHWH という神聖な神の名を意味する言葉は、人間が発音できないように当初から母音が無いため、任意の母音を充てて「ヤーウェー」とも「ヨーワー」とも発音することができる。
すると「キミガヨワ」は、ヘブライ語で「立ち上がって神を誉め称えよ!」と解釈できる。

残りの歌詞も引き続き、ヘブライ語で解釈でき、「チヨニ」は とヘブライ語で綴るが、これは一般的な言葉でもあり、「シオンの民」を意味する。
それ故、神を意味する「ヤ」を付加して「ヤ・チヨニ」とすれば、「神の(シオンの)民」、または「神の選民」となる。
つまり「千代に八千代に」は、ヘブライ語で「シオンの民、神の選民」を意味した。

 次に「サザレ」、これはヘブライ語で「サッ」と「サリード」と発音するふたつの言葉が合わさった言葉で、 (sas、サッ)は喜ぶ、 (sareed、サリード)は「残りの民」「選民」を意味する。
すると直訳で「残りの民として喜べ!」という意。

そして「イシノ」は、「イシ」というヘブライ語で救いを意味するYESHAに、 (enosh、イノシュ)という「人間」、「人類」を意味する言葉が語尾に付加して、「イシィノ(シュ)」という言葉になり、「人類を救う」という意味になる。
すなわち「サザレイシノ」はヘブライ語で、「人類を救う残された民として喜べ!」と、歌っていた。

君が代に秘められた、ヘブライ語によるもう一つのメッセージ、それは、神の選民であるイスラエルの民に託された使命である。
「クムガヨワ」から始まり、前半のメッセージは、シオンの民が国家の滅びから逃れ、神の選民である「残りの民」として神を讃えることが中心のテーマとなっていたが、はたして歌詞の後半はどうであろうか?

「(さざれ)石の巌となりて」という誰もがよく知っている君が代の一節は、一般的に小粒のさざれ石が長い年月を経て堆積し、いつしか大きな岩に変貌する意味であると解釈されているが、実はこのフレーズには君が代の中心となる貴重な宗教メッセージが、ヘブライ語で書かれている。

「イシノ」は前述したとおり、ヘブライ語で救いを意味する (yasha、ヤシャ)が語源の (ish、イシュ)という言葉と、人類を意味する (enosh 、イノシュ)が複合してできた「イシィノ(シュ)」で、「人類の救い」を意味する。

 次に「イワ・オト・ナリテ」という三つのヘブライ語が続く。「イワ」は、神を意味するヘブライ語の子音 (yhwh)に任意の母音をつけて、日本流の「神」の呼び名、「イワ」となった。

また、ヘブライ系ユダヤ人のことをアラム語では「IWARAA 」、「イワラ」と呼んだり、神の民を「YEHUDI」、「イフディ」、「イワデ」と呼んで、それらに「イワ」という発音が含まれるのも、そこに「神」の意が含まれているからに他ならない。
新約聖書においてはイエス・キリストも「救いの岩」と呼ばれているように、「イワ」は神を象徴する言葉である。

 次の「オト」は、印やサインを意味する (ot 、オト)で、神の証や予言に関わるニュアンスが含まれている言葉。
つまり「イワ・オト」と繋がることにより「神の印」や「神の証」の意となり、言い換えれば「神の予言」とも解釈できるだろう。

また「成就する」「完成する」、という意味の言葉に (nali-atah、ナリァタ)というヘブライ語がある。「ナリ」は「得る」、「アタ」は「来る」の意味があり、このふたつの言葉が繋がって、「成就する」という意味になる。
「イシィノ・イワオト・ナリタ」が「人類が救われ、神の預言が成就した!」という文章になっている。

 さて、「苔のむすまで」をヘブライ語で読むと、これまでの歌詞の流れに沿った文脈となり、歌全体を完結する言葉となる。
「コケノ」はヘブライ語で (kol-kano)と書き、実際の発音は「コ(ル)カノ」で、「コル」は「全て」、「カノ」は基礎、台の意味が原語にあり、合わせて「全ての場所」を示唆する。
「コカノ」は「全地」を意味します。そして、歌詞の最後の「ムスマデ」は「語られる」、「鳴り響く」という意味を持つ (mooshma、ムーシュマ)。
ヘブライ語の文法上、女性形も使用されることがあり、ムーシュマッテはその女性形、それ故、「コカノ・ムーシュマッテ」はヘブライ語で「全地に語られる」という意味となる。

「イシノ・イワオト・ナリテ・コケノ・ムスマデ」を、ヘブライ語の文章として読み通してみると、そこには驚くべきメッセージが秘められていたことになる。
「人類に救いが訪れ、神の予言が成就した。全地あまねく宣べ伝えよ!」と。

(成田シティジャーナル新聞の編集者で現在サウンドハウスを経営者、中島尚彦氏の記載からの引用)

となると、それが現在の私たち日本人にどのような関係があり、イエスの世界人類にもたらした福音が全世界に宣べ伝えられた後、この世のシステムが崩壊し、千年王国がやってくる最も大切な事柄に触れていきたい。

 これは聖書の預言に関連している。 まず、旧約聖書エゼキエル書三十七章十六節から見てみると「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。」とある。
その後、神はエゼキエルに一本の杖として、この国は一つの国となると約束しておられる。
「彼らは二度と、偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」と。

ヨセフとそれにつくイスラエルの全家は日本であるならば、これは驚天動地の約束事が日本に成就することとなる。
  この預言はイスラエルの救いに関することであり、エゼキエルだけではなく、イザヤもエレミヤも預言して、選民であるイスラエル国民を励ましつづけた。

 そして新約聖書のローマ人への手紙十一章を見ると、一節に「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」
イスラエルは偶像を拝み、退けられたことが書かれてあり、救いが異邦人に及んだ。これはイスラエルにねたみを起こさせるためだった。
異邦人が全世界で祝福されているのは、現在の世界情勢を見ると明らかな事実。
日本もイスラエルも世界各国がグローバル化しはじめた二〇世紀当初からその努力と奮闘にも報われなかった。
政治的にも宗教的にも世界に類のない道徳的規範をもつ国民の奮闘にもかかわらず日の目を見ていないところにいた。

そして二つの枝が叫んでいる。 「なぜ私たちはこんなにも浮かばれないのであろうか?」 この二つの国の生い立ちと変遷が全く違った道であったにもかかわらず、その類似性と運命的定めの同一性がそこかしこにある。

 パウロは二十五節で言った。 「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
 異邦人の完成の時はすでに目の前まで来ている。預言は必ず成就するししてきた。神のことばだからである。
神のことばでこの世界が造られ、維持され、そのことばどおり裁かれる。
そしてこの世は次の世にバトンタッチされていく。

 ヨセフは預言の夢を見た。太陽と月が彼にお辞儀する夢だった。
その後彼はいわれのない牢獄に閉 じ込められた青年時代の潮流にもめげなかった。
試練を耐え忍び、練達した品性から希望を見出したように、みことばにすがる日本人、イスラエルルーツを真に受ける人たちによって、イエスの福音はこの日本で花開いていく。
これは預言である。なぜなら預言者たちの霊は預言者たちに服従するから。
世の中には多くの霊がうごめいている。教会の中にも諸説が入り乱れている。しかし神は混乱の神ではなく、平和の神だから、必ずみこころのままにことが進められていくだろう。
この日本に残された民、ヨセフの民が七〇〇〇人いると地震の後に静かな声がする。

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