第15回「一ツ物祭り」大会
高砂教会牧師 手束正昭 12日夜講演
さて、一ツ物祭りについて、この祭りがイエスのクリスマスである八つの根拠を挙げます。
@ 一ツ物――この世に一つしかないもの大切なものという意味です。神のひとり子なるイエスさまと私たちは連想します。神道側からの見解によると、彼らは見えない神様が子となって現れたものだと記されています。
いろは歌を七文字づつ書いて端字を読みますと、イチヨラヤーエと読めます。これはイッチョーラ(一張羅)という語の由来です。広辞苑によると、「持っている着物の中でいちばん上等なもの」という意味です。へブル語のイチヨラヤーエの日本語訳が「一ツ物」となったのかもしれません。
A レムナント九月号で久保先生が詳しく述べていますが、仮庵の祭りの頃にキリストは生まれました。メシアニックジューでは、この時期に生まれたというのはすでに常識化しています。ユダヤの総督は、すべての民が生まれ故郷に帰る仮庵の祭りを利用して住民登録させたのです。じつは私達の町でも、この祭の神事に参加するために、地元の人たちは正月も盆にも帰省せず、一ツ物祭りに帰ってくるというしきたりがあるのです。
B 中東風のいでたちがなぜ日本の祭りに出てくるのか…私もびっくりしました。これは正に聖書にある羊飼いのいでたちでないでしょうか。その若者に担がれて小さな子供が登場する。その後ろに両親が歩く。ヨセフとマリヤのようです。
C 「ヨーイヨーイべー」という囃子ことばを叫びます。日本の祭りの囃子ことばはほとんどがへブル語だと言われていますが、これは、ヨーム・ヨベールではないかとピーンときたのです。ヨームは日、ヨーベールはヨベルの日。一六〇〇年くらいやっていると、ヨーム・ヨベールがなまってヨイヨイベーとなったのは容易に想像がつきます。「解放の日」という意味のへブル語です。
「ヨイヤサー」は、ヨーム・ヨシュアーのなまったもの。ヨシュアーはイエス様のことです。「ヨーム・ヨシュアー」→ヨームヨサー→ヨイヤサーとなったのではないでしょうか。
「ショーモンべー」は、宣言するという意味のショーモンテーが、「ヨーイヨーイベー」の語調に影響され、ショーモンべーとなったのではないかと考えられます。
D 子供が花笠≠頭に付け、そこには山鳥の羽がついています。かつては山鳥のかぶりものを被ったと言います。山鳥は山鳩であって、聖霊が鳩のようにイエスに下ったことを意味しています。
E 子供の額には八という字が書かれます。旧約聖書では、ヤー(ヤッハウェー)を八(8)という数字で表しますが、新約聖書のイエスをゲマトリアでみますと、イエスースというギリシャ語では888となります。そこから八はキリストを表わす数字となりました。または、秦氏の神、カタカナのハタのハを表すものかも知れません。この播州は秦氏が上陸した土地で、その場所が赤穂市の坂越(サコシ)です。だから播州には一ツ物神事が集中しているのです。
F 今は三本の竹割行事が行われますが、かつては境内に三本の竹が立てられたのです。しかも十字架状に組まれた竹です。正にゴルゴダの三本の十字架を象徴していると見る他はありません。
G 一ツ物の幼児は、宮の中に運び込まれて、その子供が酒を酌み交わす儀式をするのです。何故子供が大人達と酒を酌み交わしたりするのでしょうか。これは最後の晩餐の記事を思い起こさせます。「新しい契約」と考えると納得いきます。
最後に、この 一ツ物神事≠通して、私は日本宣教の新たなる視点を提案したいと思います。
第一には、「隠された十字架の国・日本」(ケニー・ジョセフ)のヴェールをはがせということ。「非キリスト教的キリスト教国・日本」の発掘ということが、日本宣教の大きな可能性を開いていきます。「聖書と日本フォーラム」に大いに期待するところです。
第二に、聖霊カリスマ運動を押し進めよということ。養子論的キリスト論に込められた「聖霊による可能性の宗教」こそ、日本の霊の壁を打ち破るものです。
第三に、大胆に文脈化(文化適応)をなせということ。現在の十二月の二十五日のクリスマスは、キリスト教のヨーロッパ社会に対する大胆な文脈化によって生じました。日本のキリスト教は余りにも西洋的です。これでは日本人に慣じめません。大胆に文脈化することにより、日本人のキリスト教を生み出していきましょう。
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