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正月の餅は日本の祝福
聖書と日本フォーラム副会長
聖書日本キリスト教会牧師
畠田 秀生
3年前の2004年、家内の母が逝った時、骨と皮だった。97歳。
1年ほど寝たきりだった。
今から4年前、私の母が旅立ったときも骨と皮だけだった。
96歳。彼女は10年間入退院を繰り返したが自分の家での大往生だった。
ふたりとも納骨時の焼けた骨は、小さな骨壷に入りきるくらいしかなかった。
哀れ人の結末、終着駅は栄枯盛衰、人はみな草のようでその栄えは、みな花のようで、草はしおれ花は散る。
死者を水で清める儀式のとき、私は「ありがとう、すまんね」が口癖であった寝たきりの義母の光り輝く魂を知るがゆえに、
横たわる醜い死体との対比をいやがうえにも思い知らされていた。
体は滅びても魂は輝き天に昇る。
人の最期に立ち会うとき、国民こぞって正月元旦に神社仏閣に詣でて手を合わせ祈る姿にだれが異を唱えよう。
無病息災、家内安全、商売繁盛は私たちの祈り、それも心からの神への願いである。
10月、出雲大社前ホテルで「聖書と日本フォーラム」主催の
大会に出席した際、大社の絵馬を読んでみた。
「私と私にかかわりのあるある人が幸福でありますように」「○○子と△△男が結ばれますように」「よい人と巡り合えますように」という無数の切実な祈りがあった。縁結びの神さまはご多忙である。
正月に日本人は祈る習性を持っている。両手を胸にそして頭を垂れて祈る姿は日本の美である。
日本人には宗教はないという人もいる。いや宗教心は豊かであるという人もいる。両端から同じものを見た場合の言い得て妙である。
私は40年、牧師をしてきて、日本人の宗教意識の喚起に努めて来たつもりだ。しかし、老人の棺おけから語る無言のことばにはとうてい及ばない。
まして若者が棺おけから無言に語るその語りかけは牧師が語ることばなどは貧弱な虫けらの鳴声で、それらは比較にもならないほど強烈である。
人は人生の豊かさを願う。その度合いの大きさを呼び覚ますのは、結婚式のときより、葬式のときだ。
スタート時よりゴール時である。 だが私は日本人のスタートがすばらしいのだということをこの年の初めに喚起したい。
9千万人が1度にどこの国に、ある時期、同時にそれもみんな
一緒に祈る民があるだろうか。
それも夜中に正装(?)して出かけて祈る、そして同じものを食べる。
韓国、インド、中国、ヨーロッパの国々、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアの友人に尋ねてみた。
国中、一緒にはそんなことしませんという同じ返答であった。
日本のパン 日本人の風習、極みとも言えるものについて書いてみたい。
それは正月のモチである。 モチはぺッタンコ、ぺッタンコと杵と臼で打たれて押しつぶされて練られてできる。
モチはその悲鳴の果てに私たちの口に入る。
そのモチの起源が旧約聖書にあるといえば、まさか!と言われるかもしれない。
「出エジプト」というイスラエル民族大脱走事件がある。
時は紀元前1500年くらい前、奴隷から解放された歴史上の前代未聞、空前絶後のできごとである。
その時、神は言われた。
「羊かやぎの血を家の2本の門柱とかもいにつける。その夜、
その肉を食べる。種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
あなたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟としてこれを祝わなければならない。」
この祭りは7日間行われた。仕事もしてはならない。最初の月の7日から14日まで。
ユダヤ暦第1月のニサンの月(新暦の3月または4月頃)の14日目を祭りとして祝った。
旧約聖書レビ記23章5節に第1月の14日には夕暮れに過越しのいけにえを主にささげたとある。
イスラエルの民が正月に行う過越しの祭りは、ユダヤ暦の
正月、民族の祭りで種入れないパンを食べる。発酵させない小麦粉の輪型のパンである。
そのしきたりは12個のパンを一並びに6個ずつ2並びに置く。
12部族を象徴している。日本のおかがみは1並びに3個ずつ床の間に2並びに置く。
アメリカでヘブル語を学び故郷の東北民謡にヘブル語で謡う歌があると発表した川守田英二氏は、日本語としては意味不明な民謡、囃子詞もヘブル語で解すると意味が通じると言う。
種入れないパンのことをヘブル語(母音がない)MTshと書くという。モッチと発音するかもしれないが、現在はそれをマッツォと発音している。
麦のみ産するカナン(現在のパレスチナ)地方では、麦の
クラッカーを食べて昔を偲んでいるがエジプトでは米が産したので大元は米のパンということになろう。
それをパンと言わないで日本語では餅と言いその名の方が正式な名であるし、マッツォに発音上も近い。
さて、エジプト脱出時イスラエルの民は、鴨居に子羊の血を
塗り、種入れないパンを食べて出発した。その数約300万人ともいわれている。
そしてそれから自分たちの約束の地をめざして旅するのだが、まわり道して40年間さまようのである。
だがしかし、その間荒野を旅する者たちすべてが健康であったという。
これは信じられないほど驚くべきことではないか。彼らは40年間、第1の月に発酵させない純粋の米のパン≠キなわち
「マッツォ」を食べ続けていたのだ。
健康は人生を豊かにする条件のひとつというより、そのもの
ずばりだろう。人の願いは体も心も健康であること、これを日本の民は正月元旦に祈る。
その効力の原因となることを知らないで毎年やっているとすると、世界で平均寿命第1位というその記録の意味もなるほどということになるのかもしれない。
体のいやし 家内の母の体は見るも無残な骨と皮であったが心は輝いていた。「ありがとう」のその声は何にもまして美しい。
イエスは「人はパンのみで生きるのはない。」と言われた。
パンで体の健康を維持し、神のことばで人は生きると言われている。そのパンがわたしだとも言われた。
イエスは、過越しの小羊として、ニサンの月の14日午後十字架上で死なれ、16日の朝よみがえられた。
過越しの小羊のほふられる種なしパンの日が来た。
その時イエスは、言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに
望んでいたことか」。
彼の流された血と身体こそが人類の罪やとがを贖う神への
捧げものであるというのだ。
キリスト教には2つの儀式しかない。洗礼(水によるバプテスマ)と聖餐式である。
聖書は次のように言っている。 それからパンを取り、感謝をささげてから、裂いて弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」
私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることであり、永遠のいのちと日常の生活での万病に効く薬と予防の働きをするのである。
私たち日本人は、彼によって邪気が除かれ、健康を保つことができる。知らないで正月に餅を食べて祝っているが、そのルーツはこんなところにある。
紀元前760年頃、イエスに関する預言をイザヤが言っている。
「彼は私たちの病を負い、私たちの悩みをになった。・・・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
私たちの多くは決して環境抜群のところには住んでいない。
東京も大阪も天の川など見られない。私の住む近く、伊勢志摩の
海岸でも今や大きな魚は釣れない。汚染されて伊勢海老も少ない。
それにもかかわらず、日本の老人は若々しい。皮膚は滑らかだ。日本食の寿司が身体にいいのもその1つかもしれないが、
最大要因は「モチ」なのだ。
正月に食べるモチ。私は子供のころ、めでたい正月なのに、
なぜ7日間も冷たい膾の料理でモチばかり食べるの?と不思議に思って母に尋ねたことがある。母はその理由を知らなかった。
メルギブソンのパッション この映画を私は封切りの日に、
ニュージーランドで見た。その強烈さに息をのんだ。
彼の身体が打たれたたかれ、骨の付いた鞭で裂かれていく
その様は、まるで蒸篭で蒸された米が、臼のなかでたたかれ練られていく様のようだった。
私たち日本人は、正月にモチを食べる。なぜモチを食べるのかその真意を問わず、ただ先祖からの慣わしだからという理由で
食べている。
イエスの体を食べている?とすると健康と長寿の恩恵のみならず世界でまれに見る平和と繁栄を掌中にしているのもうなずける。
これは、イエスが十字架上で砕かれた目的であった。私たちの病を負い、いやすためにその姿は見る影もなく打たれ、苦しめられた。
まるでモチがつかれている様そのものではないか。私たちが
知らないで行っている行事の中に人の知恵でははかり知れない力があるものだ。
そのことを「聖書と日本フォーラム」というグループが伊勢志摩の地で学びを開始した。
今後参加者を募りながら、この活動にたずさわれることをこの上ない特権と受けとめて、日本人として日本の魂に触れて行きたいと思っている。
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日本の礼儀
聖書と日本フォーラム副会長
畠田 秀生
日本は礼儀を重んじる国であり、日本国民にとっては切り離すことができないものである。
恩恵を受ければ感謝の念をもってそれに応える、これは自然の理である。
礼には礼をもって返礼する。尊き風習であり、その心は美しい。神に頭を垂れ、人におじぎをするのは最もすばらしい風習である。
礼儀は形であると誤解されやすく、外面的つくろいであると誤解されやすい。
しかし、これは日本人の日本人たる真骨頂なのであって遠慮の徳の表れなのである。
日本人は礼を欠くことを恥じとする。これは対面をおもんばかるからではない。謙遜の美徳を失うことを恐れる日本人の特性である。
これを失った日本人は、もはや日本人ではない。論議を好まないのは相手を傷つけたくない日本人のやさしさであって、理論より愛を重んじるからである。
真理を重んじるからであって、真理を主張することによって
ごり押しすることからは、何も生まれないことを知っている日本人の道徳性、倫理性、宗教性の深さを知っているが故の実である。
西欧諸国のいずれにも培われなかったものである。彼らの遠慮を知らない低級な風潮は、私たち日本人をして苦笑いさせていることをも気づかないほど、無知蒙味はもう論外である。
私はあるとき、西欧人からお礼としてドル札を裸で手渡されたことがある。そのドル札を受け取るときの戸惑いを今もはっきり覚えている。
素直に受け取ることができずにどうしたものかとその裸の
ドル札の丸めた束をみつめていたものだ。
彼らの感謝の気持ちと、むき出しのドル札とは重なり合わないのであり、日本人にはとうてい理解しがたいことなのである。
その渡し方と彼らのあっけらかんとしたしぐさを、日本人にまねしろと言ってもそれはとうてい及びもつかない。
むき出しのドル札をお礼にもらっても、日本人は心から喜んで受け取れない。
「ありがとう」と言って素直に受け取る者は、日本人ではない。
私はノーサンキューと言ったが、彼らはそれをポケットにねじ込んで、感謝の意を表したと思っている。
それでもこれもお礼には違いないか、と思って遠慮しがちに
受け取ったが、ましてや日本人はその額が少なくとも「額が少ないです。もう少しください。」など殺されても言わない。
彼ら西欧人は、逆の立場なら「少ない。もう少しください。」と
平気な顔で言うのである。
それが何か悪いのかと言わんばかりに両手を広げて肩をすくめている。
あぁ、この特性は神の子としてどちらがふさわしいかは、火を見るより明らかではないか。
どちらがキリスト教に則っているか。どちらがイエスの従者としての新しく造りかえられた者としてふさわしいか。
日本人をして異邦人というなかれ。西欧キリスト教風潮として
自他とも認知している諸国の民をして、イスラエルと言うことなかれ。
「これこそほんとうのイスラエル人だ、彼のうちには偽りが
ない。」といちじくの木の下にいたナタナエルに言われたイエスのことばこそ、今の日本人に投げかけられていることばではないか。
今日本人は、礼という徳に付け加えてこう言うべきではないか。
「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と。
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