一言居士の合併論・過去録

       市町村合併に思う        

 

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2004.3.1更新    

いよいよ寒さも最後の峠を迎え、陽の光が春の近いことを知らせてくれる。

寒さの冬を一緒に過ごしてきた私の愛機が、このところ調子を狂わせた。

今回の問題は、スタートページの立ち上がりにトラブルが発生すると言うアクシデントに見舞われ、結果的にリカバリーのやむなきに至った。

 

コンピュータは、リカバリーやリセットすれば元の姿に戻せるが、6万人の生活を抱える自治体ではそうも行かない。

関係者の長い努力の結晶である志摩市の合併議案は、本月三重県議会で賞賛のうちに議決されるだろうし、政府での承認も間違いないところだ。

既に暗いトンネルは抜け出し、明るい陽の光を浴びながら走りつづける志摩市の姿に頼もしさが宿り、希望を託す人も多いはず。

しかし、これからが正念場とも言える。

やむをえないところではあるが、問題の先送りは山積し、多くの項目については「新市誕生までに、あるいは新市誕生後に、検討・調整」と言うことになっており、これからがまさに次世代を卓見した政治の仕事の真骨頂である。

まずは、合併するという大同のために、小異を捨てた勇気には敬意を表するが、これから10月までの間が腕と責任感の見せ所と言うことか。

なんといっても行財政のスリム化、無駄を省くという大儀と、その効果が出てこなければ合併は意味がなく、逆に合併による行政の焼け太りと言われてしまう。

もともと、「財政危機だから、合併して効率をよくし、住民サービスの向上を図る。」と言うのが正しい合併の選択で、「合併特例債を頼りに財政危機を乗り越える。」と言う、本末転倒した発想を続ければ住民がその被害者となってしまう。

この財政危機を招いた原因を遡れば、特例債頼りの合併の誤りがよくわかる。

 

1980年ごろから始まった「地方の時代」の呼び声が、全国各地のイヴェントやテーマパーク建設に火をつけ、バブル時代と共に地域経済の活性化を果たしてきたが、それも一時の泡と消え、夢から覚めた後に待っていたのが今の借金財政苦であった。

こんな中でも、我が町は過去の教訓を生かし、周りに影響されずに堅実に歩んできた歴史があるからこそ、今日に至っても誇りを失わずに、5町と列して合併をリードすることが出来る。

しかし今後、全国規模の合併が順調よく言った暁には、問題の特例債の付けが国家財政を破滅に追い込むことは明白であり、そのしわ寄せがどこかに起きることも自明の理である。

しかも、特例債は借金であり、その1/3は新市での負担となるわけだから、この使途に関しては、旧町単位の事業費に回すことなく、真に新市として、明確な位置付けの出来るものだけに使われなければならない。

また今現在、5町合わせた借金総額は230億円で、それすらその償還に苦しんでいるのに加えて、合併特例債300億円の正味である100億円が、新たに追加されたらと考える時、その額の大きさに子孫への背信行為を危惧する。

国の支援が打ち切られた10年後、財政が伸びきってしまっていることが予想されることから、今後新市建設計画の中での実施計画の策定にあたっては、十分将来を踏まえた上で、この合併を実りあるものに仕上げて欲しい。

 

合併に対する国の財政支援は10年で打ち切られるが、私たちが住む志摩市は形を変えても永遠に存在し続ける。

私は合併推進論者であるだけに、10年経って、残ったのは大きな借金のツケと怨嗟の声、心のむなしさと言うことにならないようにしてもらいたい。

 

2004.2.20更新    

ここしばらく志摩市の春を予感させられるような日が続いているのが嬉しい。

2月13日、志摩市構成の各議会で合併関連議案が可決され、昨日19日予定通り、三重県知事に対して5町の廃置分合申請書が提出されたとの事である。

志摩青年会議所が、いち早く立ち上がり志摩市実現へ向かって運動を起こしてから、8年ほども経過したのだろうか。

未来社会への理想に燃えた青年の運動が潰え、国と地方の財政が追いつめられた状態の前に結実すると言う皮肉な結果になったが、彼らの果たしてきた役割は決して無駄ではなかっただろう。

そしてまた、あの時磯部町と浜島町の議会が反対して、壊れたことも今回のスムーズな合併への動きに貢献していると見たい。

今回、志摩市への糸口を導き出し、その流れを住民に浸透させる歴史があったからこそ、短兵急な国の要請にも応えることが出来、青年の目指した志摩市が実現する寸前にまで来ている。

私としては、もっと夢を大きく広げて欲しかったが、8年前から志摩市への道筋は出来つつあったのだろう。

 

そして、いよいよ船は岸を離れた。

新造なった志摩丸の乗り組み員は、10倍になったが船長は5人いる。

今は合議制で目的地に向かって運行するのみだが、前途は険しい航海と考えたほうが良い。

5人の船長の目的地が明確に定まっていれば良いが、それぞれが異なった方向を向いた行方定まらずの旅立ちは危険極まりない。

マグロか鰹か、はたまた鯨を獲るのかはっきりさせないと混乱するし、みんな獲ろうとすれば船は彷徨うか、たとえ満船しても転覆の憂き目を負うことになろう。

出航に先立ち取り決めた事項よりも、当然とは言え今だ未確認事項も多い。

目的地に着いてから決めることも多そうだが、これらの中には大事なこともある。

引き返すことなど出来ない志摩丸乗務員一同、5人の船長に命を預けて、運命共同体の一員として目的地を目指さねばなら無い宿命にある。

目指すべきところは、新しい時代に合った新しいまちを作っていこうという志と、ゼロからの出発という希望を共に持てれば成功するはず。

航海は厳しくともそんな雰囲気を作れるか、または一人一人がそんな気持ちになれるかが、この航海の明暗を分けるのだろう。

正に志摩市から、「志(こころざし)」と「摩(ま)」が抜けたら目も当てられない。

 

この合併は何のための合併かが理解されないまま、合併が地域問題を解決するばら色の花と錯覚させ、難しい問題を先送りにして来たとしたら大変だ。

ここに来て再度思うのは、自治体財政を健全に運営すると言う自治体としての当然のモラルが、合併を機に崩れたのでは無いかと言う心配がある。

今の合併の本質は行革の一環であり、行革せねば合併しても問題は解決するどころか、逆に破綻を早めることになることに目がつむられてきた。

「合併前にハコモノ公共事業はできるだけやってしまえ。財源の手当は合併後の新市にツケ回しすればよい。」と言う気風があるとしたら、合併後の新市は巨額の債務をかかえこみ、「昭和の合併」の財政破綻の二の舞となるだろう。

今からでも、合併した後に財政破綻の愚を繰り返さないために今何を成すべきか、成さざるべきかを決めておいたほうが良い。

 

維新とともに急速に衰えて行った中山道の宿場・馬籠宿、そして本陣島崎家の没落と心労による父の発狂を描く島崎藤村の「夜明け前」を志摩市は迎えたくはない。

 

2004.2.11更新                                 

くしくも建国記念日の前日に当たる2月10日、志摩市の建国に到る5町の合併調印式が無事に終えられた。

紆余曲折を得ながらも、3年ほど続いてきた協議がついに結実し、町政奉還がここになった。まずは、ここに到る関係者と協議会事務局の忍従・努力、労力に心底から賞賛の拍手を贈りたい。

この関係者の労苦には申し訳ないが、今回の平成合併を150年前の明治維新になぞらえて見たときに、また別の興味がわいてくる。

まず幕末、連年続く不作、凶作により米価を中心としたインフレが、昨年の不作による米価高騰の姿と変わらない。

また、国内の動乱に備えて、諸藩が多数の人数を京阪神に送り込んだがために、引き起こされた物価高などの社会不安は、不況であえぐ今の国内の鬱積とよく似ている。

そして、北朝鮮やイラク問題に端を発する国際社会との協調などの問題は、列強の強引な開国要求に混乱する幕府と朝廷の外交方針の無策がかぶって見える。

幕末期、幕府と朝廷は外交問題をめぐって政局は混乱すると共に、幕府財政は疲弊の極みに達し社会は激動した。

 

この動乱を避けるために、徳川慶喜は大政奉還で政権を朝廷に返上して徳川幕府の終焉を見た。二条城において諸藩の重鎮を集めて行った大政奉還に当たるのが、先般の合併調印式と置き換えて見るのも一興を添える。

時の将軍としては、その後の大名の合議制による政権体制のなかで、自らの権力保持に期待をつないだらしいが、その後の徳川家の運命は歴史が示す通り、順風満帆とは進んでいない。

この時も、将軍が大政奉還の上表書を提出したその日、薩摩および長州両藩に討幕の密勅が出されており、一歩遅ければ戦端が開かれていたと言われるように、平成合併にも強制力が強まることが目に見えている中で、今回粛々と進んだ志摩市は将来に希望を託せたのではないかと思いたい。

 

しかし、ここまでは易い。大政奉還によって政権交代が円満に推移したとは歴史も伝えてなく、一時的な妥協の産物でしかありえなかった。

また、政権を返還された朝廷にあっても、ただちに政権を担当できる実力はなく、諸侯の合議制で政権維持を図ったに過ぎない。

そして明治維新。

武士の世が崩れ、平等社会を夢見ていた民衆も富国強兵政策や苛酷な租税によって現実を知らされることとなる。そして主君を失い路頭に迷う不平士族などが、幕藩体制への蘇りを目指して各地で叛乱が起こることとなる。

まさか、志摩市においてそのようなことは起こらないが、旧町のほうが良かったのにと言う声は確実に起きる。如何にこの声を少なく出来るか、小さく出来るかが今後の課題となるのだろう。

 

新市建設計画事業量などを見た限り、新市としての視点や展望が開かれずに、単なる5町の寄り集まりとしての姿しか見えないのが悲しい。

これでは行政区域が広がっただけで、従来路線の延長でしかありえず、合併の大義である行財政の合理化や、住民サービスの向上どころか、合併のキーワードとされてきた自立”“個性”“競争の片鱗すら見当たらない。

合併特例債が、各町の個別事業に使われてしまうようなことがあれば、更なる借金財政への道をひた走ることとなる。

志摩市として、建国の気概を持って取り組んでくれることをひたすら願う。

残されている宿題も多いが、合併への選択が誤りでなかったと、将来言われるように更なる諸氏の活躍に期待したい。

 

大久保利通の言葉

「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分一人でも国家を維持するほどの器が無ければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志をなすことなどできはしない。」

 

2004.2.4更新                                 

いよいよ合併へのハードルの一つが越えられそうである。

唯一実施された大王町の住民投票も、大方の予想通りの結果に終わった。

特に反対運動も無く推移している中で、実施される住民投票の意義と意味も問われていたが、この住民投票に先立ち各町で行われた住民説明会も、何の盛り上がりも無く終わったようであり、その希薄さの方が将来的に危惧される。

大王町の場合、大方の予想通り投票率は53%と低調ではあったが、開票されずに終わると言う最悪のケースは何とか逃れられた。合併賛成3289票、反対576票と言う結果が示すように圧倒的多数が5町合併推進の立場を支持した。

 大王町に先立ち行われた朝日町の住民投票の選択は、単独に決定している。

合併には、進むも地獄、退くも地獄の2つの究極の選択肢よりない。

そしてその説明として、同じ地獄を見るなら進めざるを得まいか、だったら退くほうが良いと言うことになるのだろう。

朝日町長は合併を危うい物と説明をしたのだろうし、大王町は合併しないことを恐れる説明をしたようである。座して死すより打って死すの心境を選択した。

要するに変化を好まない日本人の精神構造は、自分で考えるよりあなた任せの考え方に近く、リード次第で世論も変わるのが通例である。

その結果が双方の投票行動を正反対の方向に導いた。まだまだ自己責任が良く理解されていないことが、志摩市の将来を暗示していないことを望みたい。

 

そして自らの手を汚さずに、この住民投票での合併抵抗を期待しながら、模様眺めしていた一部議会が啓蟄を待ちきれずに蠢き出したようである。

始め粛々進行し、終わってから大騒動とならねば良いがと思う気持ちは、痛いほど良くわかる。行け行けドンドン式の進め方よりも、大いなる反論や疑問を洗い出し、その上で住民の覚悟を導き出せれば、それはそれなりの成果とも思える。

なぜなら、合併の必然性には疑問を差し挟まないが、ばら色の合併は幻影でしかないことの警鐘を鳴らしておくことが必要と思うから。

しかし、住民への浸透や、諸条件が整うのを待つのは百年河清を待つがごとく、先延ばしにして解消する物でもなく、速やかに妥協する努力をするべきでなかろうか。

開かれた新しい国づくり(志摩市)に今必要なのは、の一字に尽きる。

どんな理由を付けるにせよ、合併調印の日を延ばすことが、今来た道を戻ることでなく、より安全で確実な道にならなければ政治の欺瞞と言われよう。

 

2004.1.10更新                                 

2004年、予定通り行けばこの年をもって、地方自治体としての浜島町が消える事となる。振り返ってみれば、我が浜島町は明治この方、125年間もの間合併の経験を得ずに安穏のうちに過ごしてきた。

大正8年10月一日、町制を施行してからも一度の行政区域の変更も無く、85年の歳月をもって終焉を遂げようとしている。

その間の1時期でも、町行政に携わった者としての寂しさは、言うに言えないものがあるがこれも時代のなせるわざとしか言い表しようが無く、現在の心境は、この合併が更なる町の発展につながる事を願うのみである。

 

しかしその市町村合併への道も、合併特例法の最終期限である2005年4月を1年後に控えた今、県内各地で不協和音が奏でられ始めたらしい。

お隣の伊勢市、二見町、小俣町、御薗村では、法定協議会設置の期限をめぐって一波乱起きているし、多気町・明和町・勢和村・玉城町・度会町で作る5町村任意合併協議会においても、法定協議会への移行を前に多気町が任意協を離脱したために解散してしまったようだ。

また、熊野市を中心とした枠組みから離脱した、紀宝町・鵜殿村の再編もあるようである。すでに離脱を表明しているところを別にしても、いまだ混沌としている処がたくさんあって予断を許さない様相を呈して来ている。

それぞれ言い繕ってはいるが、土壇場で起きるこれら破綻する原因の多くは、合併によってその地位や権威を失うことをおそれる人々の成せることである。

新しい新市の名称や庁舎の位置の問題にかこつける等して、あたかも正論らしく見せかけて離脱理由をカモフラージュしているが、要するに自身の保身を第1義に考える階層が余りにも多いことに過ぎない。

それに付け加えるならば、他の自治体への不信感もその一因と言える。

財政健全化に向けた市町間の取り組みが何らなされずに、駆け込み的事業を進める他自治体の信頼関係への喪失や、真摯な合併への取り組みの欠如も不信原因となっている場合もあるらしい。

 

幸い志摩地区合併協議会は、大同小異をとって順調な経緯に到っていることは喜ばしいことだが、ただ心配するべきは、小さな事柄で同意しても、肝心なことをなおざりにしていては意味が無い。

また、自分のこと、自分の町だけを主張するような話し合いなど、いくらやっても意味が無いし結果に結びつかない。

地方の財政状況は厳しく、少子高齢化はまぎれも無く急速に進行している。

今後、住民サービスの水準を維持していくには、効率化を進め、行財政基盤を強化しなければというのが合併の大きな狙いだった。今日の物差しで計るのではなく、未知の物差しを卓見したうえで事に当たる必要があろう。

近日中に始まる住民説明会は、志摩の国漁業協同組合の合併での不信感が増幅している今、志摩郡新市の存亡にとって剣が峰を迎えることになる。

信頼を第一義に、勇気と知恵を分かち合い、当面の艱難に耐え忍ぶ覚悟の理解を求めていくことが必要であろうし、自らその範を示してもらいたい。

 

良い合併とは、新しい時代に即応した新しい町を作っていこうと言うたゆまざる意思と、希望を共有することになるかと思うが、ややもすると事務的処理に終わってしまう合併もある。

明けてびっくり玉手箱とならないことを願いたい。

 

2003,12,21更新

先般の志摩地区合併協議会を伝える報道は、水道料金等での協議の不調を表面化することになった。これ等のことは総務省の進める合併マニュアルに問題があり、当初から危惧していた所だが案の定の雲行きである。

公共料金の格差是正の対応として、総務省の答えは二つで、「一般的には、サービス水準は高い方に、負担は低い方に調整されることが多いと言われている。」と、「合併前の市町村間で話し合って決められる」というものでした。

2番目の答えは無責任極まりない物ですが、総務省としては、これで立派に自己決定・自己責任を明記している事になるのでしょう。

多くの人は自身に有利になるところだけが耳に入りやすく、高サービス・低負担をイメージするが、結局のところ、そのつけは廻り廻って自分の所に届く仕組みになっていることを言い表せております。

 

実際に合併を先行した自治体では、合併のさいには「サービスは高い方に、負担は低い方に」と決めてスタートしても、合併後しばらくして、あるいは直後から、公共料金の値上げや、サービスの後退が起きて来ている例が少なからずある。

当たり前のことであるが、詐欺的手法でこの問答に答えていることが問題だ。

今回の水道料金等の問題、どの道、合併参加町内で解決されるべき問題であり、現金で払うか先付けで払うかの差異程度に考えていけば解決も早い。

合併に大きな期待を託すことは無理なようだが、生き残りに他の選択肢はない。

 

2003.12.1更新                                  < < 一言居士>>

この先、我が新市も合併協議の山場を迎えつつある。各論ともなれば議論もかまびすしくなることは避けられないが、大同を目指して進んで欲しい。

各論における決定事項はごくわずかで、多くの項目については「新市誕生までに、あるいは新市誕生後に、検討・調整」と言う結果のようである。

合併に期待を持たせたがゆえに、最高のサービスと最低の負担を求める矛盾した声がミスリードして、協議の速度を鈍らせているようだ。

しかも、これらの声は真に合併を考え、真に住民本位を貫こうとする意味において、真摯な考え方の表明であり、その姿勢に共感を覚えるだけに、水をさすのは躊躇する。

しかし、合併はあくまで手段であって目的ではない。合併によって花開くということが幻影であり、生き残りの手段でしかないことを銘記してかからないと、高望みばかりして更なる財政危機を招くこととなりかねない。

今、協議会の中で問題になっていることの全てが、このことに端を発しており、財政的裏づけも無いままに高サービスへの要求が続く一因ともなっている。

 

小泉首相の構造改革も一緒で、将来的な展望の説明がなされないと、直下の痛みだけがクローズアップされて不安をあおる。その結果、構造改革はもうだめだ、合併はもう嫌だと言う声につながり合併を破棄させてはならない。

住民本位を謳いながら、過剰サービスを要求することが結果として、保身を考える人たちを喜ばす皮肉な結果につながらないことを望みたい。

住民のサービス低下や、負担アップは最大限避けなければならないが、論理的に説明されれば納得できることもあろうし、まずは行政の姿勢が信頼されれば解消させられる事柄である。

それをせずに、これらの真に善意の声と妥協し続けていけば、小さな行政を志向する合併の大義に反することになる。

近づきある財政危機を乗り越えるために選択した合併への道が、それによってなおさら急激に財政破綻をきたす元凶ともなりかねない。

 

このようなことは、当初から予測できたことであり、任意協議を続ける中で、サービスの平準化、住民負担の均等化をあらかじめ調整しておくべきであった。

全町そろわなくとも、凸凹の調整方針を立てておけば、軟着陸の方向へ歩んで来られたはずである。

それらの配慮どころか、目立ったのは各町村の抜け駆け的、功名掛けの施策の展開ばかりで、そのことが今日の協議の停滞を招いた元凶とも言える。

中には、任意協議会の設置以降においても、更なる格差を招く事柄もあったことに合併の大義の不在を悲しむ。

 

私の理解する合併の大義は、行財政のスリム化、無駄を省くと言うことにある。

 

2003.10.1更新  
合併による新市誕生まで、残すところ1年となった。
小俣町では、伊勢市と共に進めてきた1市3町の合併が、土壇場に来て議会の反対で否決され、町長以下幹部5人が辞職すると言う混乱を招くことになった。
志摩郡新市では、ごみ処理手数料について意見が分かれたらしいが、このような事態は当然予想されたことであり、憂慮するには値しない。
異なる市町村がサービスの内容や、その費用徴収において議論百出するのが正常な民主主義であり、意見を言わずして結論のみで締めくくった、どこかの議会よりよほど成熟している。

この機会に浜島町のごみ処理について振り返ってみた。
戦後まもなく浜島では、市街地の商店などのごみを大八車で収集し、海岸や空き地で焼却したことに始まる。当時のごみは、自家処理にて始末をするのが当たり前であったが、昭和30年代に至って観光旅館業が盛んとなり、観光政策の一環として浜島地区に衛生組合が設立された。任意組合では有るが、行政も支援して焼却炉を備えた本格的な清掃活動に入った。当然、有料では有ったが、当時としては先駆的事業として注目を集めたものである。
それから遅れること10年余り、昭和45年に始めて清掃法が出来、ごみ処理が町の義務となったため、町の清掃事業として新たな発足をして現在に至る。
このような歴史があるため、清掃法発布時もごみ処理費用の応益負担の考え方があり、その役務手数料として利用者負担の原則を貫いてきた。
その背景として、清掃法では「事業者は,その事業活動に伴って生じた廃棄物を自らの責任において適正に処理し、また、再生利用等を行うことにより、できるだけ減量に努めなければならない。」ことになっているが、多くは一般廃棄物として処理する必要があるため、全てを税で賄うことの不合理を調整したものであり、当時の為政者の深慮はけだし卓見と恐れ入る。
すなわち、産廃以外の事業系ごみ処理は、本来的に事業者において処理すべきものであるが、現在、多くの市町村がその処理に当っており、家庭ごみとの差別化を図る必要性から、応益負担の考え方を根本において採用された。
当初は、その事業内容によって料金を決めていたが、必ずしも正確とは言い難く、量と料金の不均一について不公平感を指摘されつづけてきた。
それが、分別収集に先立ち、収集袋へ費用を添加することにより、量に応じてその負担も変化することになり公平化されて来たのが現在である。

今回、新市協議のごみ処理事業において、袋収集は5町とも共通であったが、その袋代において高低があり、協議が整わなかった様である。
これは、それぞれの町における考え方の相違が根底にあり、袋代の実費徴収と、袋代にごみ処理手数料を付加する方式との差が原因である。
増えつづけるごみの減量化や、新たなごみ処理場建設が宙に浮いている今、税だけでごみ処理の全てを賄うことは出来なくなってきている。
全体のごみ処理事業の中で、家庭ごみと、事業所の出すごみの割合は、ほぼ匹敵すると考えられるが、その対象者の数は家庭の数が全体の大部分を占めることから、大量排出者が相応の責任を果たすことはやむを得ない。
よって、誰しもごみ袋代が安いに越したことはないが、そのことによってより以上利益を受けるのが、大量排出者であってはごみ減量化という大命題にも反することになる。

磯部町と大王町において値上げとなることの痛みはよく理解できるが、安くしてその恩恵を最もこうむるのは事業系ごみ排出者と言う側面を知る必要はある。
各町による産業構造の差にもよるが、少数の強者を、多数の弱者が支えるようなことになれば、それこそ住民にとって不幸せだ。
トンボの目で物事を見よう。

 

2003.9.21更新  
政策に一抹の不安を覚えながらも、国民の間に圧倒的な人気を得ている小泉首相の続投が決まった。変人と言われ、党内基盤の弱さを指摘されながらも、いまや日本の顔として国際的評価も高まっているだけに、取って代われる人がいないことがさみしい。
夏の最中には、構造改革の遅延やイラクへの自衛隊派遣問題、不況対策での異論などで、再選危ういとの見方もあったが、自民党員の良識が残っていたのか、はたまた自身の選挙と言うお家の都合が勝ったのかどうかは知らないが、結局はもとのさやに収まった感じである。
今回、この不況脱出のために、何でもありと言う姿勢の亀井氏の言動は、時代を後戻りさせようとする愚挙にしか映らなかったし、抵抗勢力の唱える積極財政も、国・地方合わせて700兆円の借金の前には、空論にしか映らない。結果的に、亀井氏は狂言回しを演じてしまったようだ。
やはり国民の多くは旧来型国政を忌避し、小泉改革の危険さ、不透明さを危惧しながらも改革・前進を求めたのだろう。
そして、早ければ11月までの短い内閣が組閣された暁に、総選挙となるスケジュールが既に取りざたされている。自民党議員の多くは、小泉首相の元での選挙戦を戦いやすいとの判断であろうが、果たしてこれで選挙での自民党の躍進、健闘につながるのだろうか。
自民党の総選挙の戦略上においては小泉首相だと思うが、必ずしも今の自民党に利があるとは思い難い。
そして、この総選挙を乗り切れば小泉首相の長期政権が確立する。

今回の総裁選挙をバネに、小泉改革が新しいスタート台に着き、今まで唱えてきた改革が実施できる環境が整った。この際、抵抗勢力と合い打ちしてでも改革の実を挙げてもらいたい。
小泉首相の頑なまでの頑固さに信頼を置いている国民は多い。
改革を進めることにより、公共事業の影響もさることながら、地方にとってより厳しい時代を迎えることとなろうが、地方分権社会の構築、国の保護を離れ独り立ちできる希望も大きい。

いよいよ、補助金を減らし地方交付税も見直し、その代わり税源を地方に移すと言う三位一体改革の正念場を迎えることとなる。三位一体改革の真の狙いは、明治以来の中央集権・官僚システムを根本的に改革して、地方分権を進めることにあるが、国の財政的縁切り宣言でもある。
当面は補助金削減と交付税の見直しだけを行い、税源委譲を先送りされてきた。やはり、中央集権体質は抜けきれないこの背景には、国の官僚の保身・権限委譲への抵抗にあるが、地方への信頼が薄い国の姿勢がまじまじと伺える。
また、見方を変えれば、まだまだ見え隠れする地方の甘えの構造が、三位一体改革を阻んでいるような思いに至る時がある。
地方制度改革の骨子となる三位一体改革の進行を期待する半面、自治体の自立、自助の意識の薄さが嘆かわしくもある。
今回の合併問題一つを取り上げても、当地域のみならず全国的に合併助成金に誘われている節が顕著でありすぎる。こんな有様を見れば見るほど、市町村の自立や、自己責任の意識を疑いたくなる。
親離れしない自治体が悪いのか、子離れさせてくれない国が過保護なのか、それを解決するには子が独立する気概を示すより他ない

 

2003.9.11更新    
まだまだ残暑厳しいものがあるが、朝夕の中の短い一時にだけ、夏の収まりを感じられるようにはなってきた。しかし期待した暑い夏は、ついに今年も訪れることなく、長雨と残暑ばかりが目立つ寂しい夏で過ぎてしまったようだ。
町の威信を掛けてプレオープンした陸磯体験施設、小さな子供達の遊び場としては、それなりの賑わいを呈していたが、今後の運営に数々の問題点を残して一夏を終えた。
今、行政体としての浜島町が無くなろうとしている時に、運営維持に町の身の丈を超えた、いわく社会資本の整備をしてしまった以上、何とかこれを意義あるものにして行く必要があるだろう。
補助金等の適正化を定める法律に従えば、少なくとも7年間は廃止できない。
計画段階では、わかりづらかった施設の全容も、その中核施設が完成したことによって、町民の間にもその問題点がわかりかけてきた模様である。
この際、賛否の意見を超えて、生かせるところを生かすべく前向きな活用の方策に取り組んでいくことが、今後の運営にとって大切なことなのだろう。少なくとも、新市のお荷物資産となるようでは、今後の浜島町における本来の社会資本の整備と発展に水を注す。

合併後の新市のまちづくり理念においても、観光の重要な位置付けは変わらない。それどころか、広域連携は観光にとって好材料となるべきと予測される。
伊勢志摩の四季は、神宮に加えて豊富な食材と豊かな自然が売り物だ。中で、志摩の夏は開放的で、最も志摩らしい雰囲気をかもし出す絶好の観光シーズンであった。
それが、今年の夏の状況では、幾ら、不況と冷夏の影響とは言え救われない。
しかも、近年の傾向として三重県の中でも、特に伊勢志摩地域の観光の減少が激しいらしいと伝わる。

そんな中、志摩郡5町での新市への道が開かれ様としているが、1次産業と観光を、基幹産業として位置付ける新市の前途の厳しさが憂慮される。
運命共同体としての志摩郡新市と観光を結びつけた時に、思い起こされるのが志摩の国の国主・九鬼嘉隆である。
400年程もさかのぼるが、織田信長に仕えて北畠氏攻めに参加し殊勲を上げて鳥羽・志摩を制圧した九鬼嘉隆がその人である。彼の生涯は、親子・兄弟・肉親が血を血で洗う壮絶なものであるが、全国に九鬼水軍の名を成さしめた戦国時代の寵児である。
その九鬼嘉隆を大河ドラマにと言う運動が、その嘉隆の孫が移り住んだ兵庫県三田市において活発である。

九鬼嘉隆は、織田氏、豊臣氏の武将として戦功を上げたが、関が原の戦いのときに豊臣方、その子・守隆が徳川と、親子に分かれて戦った挙句、自刃して果てた。そして代替り、守隆の跡目相続をめぐって御家騒動が勃発したため、幕府の裁定によって、その子・隆季は京都・綾部藩へ、久隆は三田へと移封された。
その後、明治に至っても九鬼氏と歴史のかかわりは続き、その後裔の活躍は明治期に至っても華々しい。
この大河ドラマへの運動は、鳥羽市においても有るらしいが、広域観光を標榜する当該地域も無関係でない。何せ九鬼水軍の活躍の舞台素地は、志摩の海にあるのだから。
「九鬼奔流」−幸民・洪庵そして諭吉―を  NHK大河ドラマに出そう!      
http://www.nogami.gr.jp/index.html

戦国時代の覇権主義と違って、現代は小さくまとまろうとする国づくりでは有るが、志摩の覇者九鬼嘉隆にスポットを当てて見るのも、新市の観光への第1歩ではないだろうか。
又、合併を目の前にして、古き歴史の中の志摩の国を紐解くのも一興である。

 

2003.8.21更新     
新市を包括する広域連合が、し尿処理場建設で大きな壁にぶつかっている最中、三重県のRDF活用発電施設で大惨事が起きてしまった。尊い人命を損なう大事故となり、数日を得ても被害は拡大する一方である。
もともと、この発電施設は、国際的なダイオキシン問題の警鐘に対して、市町村のごみ処理施設が矢面に立たされた時に、当時の北川県政が三重の国づくり計画の中で、生活者重視と循環型社会の構築を命題として掲げ、市町村のごみ行政を支援するための施設として推進されたものである。
三重県は、市町村のごみ処理施設のダイオキシン対策としてRDF化を推奨する一方、それによって出来たごみ固形化燃料を受け入れ、その熱源でもって発電すると言う一石二鳥を画した注目の施設であった訳です。

この背景には、市町村が実施してきた従来型の焼却方式のごみ処理施設では、低温時においてダイオキシンが排出されるため、2000年までに改善することが義務付けられたことに端を発する。
限られた期限内にその改善を迫られた市町村としては、施設の改善か、新設を迫られることとなったが、どちらにしても莫大な資金を要する選択であった。
しかも、従来型焼却方式でダイオキシン対策が可能な施設建設にするには、環境アセスメントに時間がかかり過ぎるため検討の対象外となり、残された道は現有施設の改善か、ダイオキシン問題を解消できる新らしい方式での新設かの選択を余儀なくされた。
そして、このダイオキシン問題を解消する施設として最も有効な溶融炉方式は、日量100T規模の施設処理能力を備える必要があり、ここに鳥羽志摩連合の成立意義が生じた。

また、同時期に管内の市町村が共通して課題となったのが、し尿の海洋投棄の禁止であり、新たに始まる介護保険制度も重なったことが広域連合の意義と期待を倍加した。従来は、市町村間の同一の事務を持ち寄る一部事務組合が、唯一の共同処理組織であったが、広域的な行政目的を多角的に行える広域連合制度の発足は、当時の時代的要請の産物としての必然性があった。
結果的に、ごみ処理施設については各町の既存施設の態様が異なるため、単独町で進めざるをえなかった。改善の不可能な当町は、三重県の進めるRDF方式で期限内に新設することが出来た。
当然、当町のRDFも今回の事故の発電施設に搬入されており、この事故も人事でなく今後の行方が心配されるだけによけい残念だ。

それ以上に危惧されるのが、鳥羽志摩広域連合の立たされている現状の厳しさであり、連合長の苦悩でなかろうか。
もともと、広域連合制度の成立過程には、多角的な行政需要に答えるため、市町村の広域化が求められる中で、急な合併への道を回避するための方策として、次善の策として生まれたものとの認識が私にはある。まさに、効率的市町村経営の手段である広域連合と市町村の自立を目指した市町村合併は別物にして、別物にあらずとの感から抜け出せない一人です。
それだけに、当初から自立の出来難い5町合併ありきで進めた新市の枠組みが、広域連合を骨抜きにしつつ、ごみやし尿に関しては、連合に期待を寄せると言うナンセンスなことになってしまったのが今にして悔やまれる。
こうなってしまった以上、新市として解決の一つの道は、志摩新市独自の方策を持つつもりで、し尿処理施設建設問題を広域連合の仕事から、新市の仕事として位置付けたうえで解決し、施設設置後に、広域連合の圏域全体で運営すると言うのは、門外漢のたわ言の域を出ないのであろうか。
新市建設計画に明確に位置付けることが、合併特例債を有効に生かす道であり、より良い施設が地域へも貢献できる。

志勢環境衛生組合当時の旧施設では、磯部町と当該地域に多大な迷惑をかけてきた。当時を知るものとして、もし又山田地区が、立地を受け入れてくれるなら従前の迷惑を償って余りあるものを願わずにいられない。
し尿処理施設が今後の新市の前途を占う鍵となってしまったようだ。

 

2003.8.11更新
危機と協力を訴える鳥羽志勢連合だよりが発行された。
問題は2007年には国際的な約束事によって、禁止されるし尿の海上投棄に対処するための処理施設建設が、崖っ淵まで来ていることへの危機的状況を伝えている。
伝わるところによると、この問題が宙に浮いているところは東海3県の中では本連合区域のみとなっているようだ。このままでは残す期間で、建設することが絶望的となりつつあることから、その窮状と今後の対応、協力への依頼であり、連合長としての鳥羽市長の苦悩が便りに表れている。

美ましくにを標榜してきた伊勢志摩において、このことが与える意味と影響は少なくない。建設理由にも、反対理由にも観光デメリットが指摘されると言う矛盾が生じることに、この問題のむずかしさがある。

すなわち、建設できなければ自然美を誇る当地域のイメージの低下が懸念され、観光地として立ち行かない、建設すれば排水が海を汚して観光地としての先が無くなる。
実際は、そんなことは無いはずだが、強迫観念に有る側の人にすれば、行政不信に端を発しているだけに、信頼回復と並行して進めるこの道は厳しい。

もつれたときには、スタートに戻るとまで行かないが、過去の破談の中で唯一、地元同意が得られた磯部町・山田地区に、再度の協議の場を移したと言うことであり、建設的協議の進展に望みを託したい。
やはり困ったときの磯部町頼みと言うより、志摩郡における磯部町の重要性をまざまざと再認識させられることなったようだ。ただ、反対意見も根強いものがあろうし、お互いによく耳を貸して新市の財産になるような形にして欲しい。

今さらの感はあるが、ここに来て思い起こされるのが、やはり合併の枠組み問題に行き着く。振り返って考えたときに、ごみやし尿の、俗に言う迷惑施設の広域的な解決に取り組んでいるときに、合併問題が避けられなくなり、しかもその枠組みが連合と異なることが問題解決を難しくしたとしか私には思われない。
最新技術を取り入れた、ごみや、し尿処理の効率的な施設建設は、ある程度の大きさの規模で無いと財政的にも、効率的にも有効でない。
そのために出来た連合の枠組みを、無視した形で合併の枠組みを進めたがために、このことに水を差し問題解決の芽を摘んできたように思う。
以前のし尿処理施設で、最も苦しんで来た磯部町長が大同合併を提唱してきた背景には、今日の姿を予想してきたのではないかと勝手に解釈する。
結局は、安易な道を歩もうとすれば、問題先送りの解決より無いことがわかった。ただ、し尿処理はこれ以上の先送りが出来ないだけに、新市の最重要課題となってしまった。

 

2003.5.21更新
先般の合併協議会で、5町合併を目指すことの再確認と、南勢町の参加要請に対しては正式にお断りすることを決定したとのことである。
5町そろって6月議会での議決を待つことになるが、磯部町を除く4町に関しては、新しい議員で初めての本格的な協議となる。
それまでに大方の議論を出尽くしてあると思うが、今後の新市へのスタートを切ることになる大事な争点である。最初に結論有りきで取り組まずに、民意の代表者としてそれぞれの思いを論じてもらいたい。
それが町の歴史を閉じるに当っての、政治家の勤めであり後世に果たす責任でもある。それぞれの政治理念を、会議録として永遠に残したうえでその評価を次代に委ねよう。

南勢町との縁切りには理解できないわけではないが、その理由としているところの時間的制約、事務の停滞と言うことに理想の軽さを感じてしまう。
行政マンは物事を完成させること、形を整えることを優先するが、それをうまく誘導して理想を追求し、実現していくのが政治である。
常に何事かを起こせば、得るものと失うものが出てくる。この合併では、それが長期にわたって影響するものであるだけに充分な協議に期待する。

合併論議盛んな折り柄、南張小学校が117年の歴史を終えて浜島小学校へ通うことになった。地域にとっては、教育・文化の発信源が無くなる事への惜別の感をぬぐうべくも無いが、小子化時代のなせることなのだろう。
今までにも何度となくこの問題は、提唱もされ論議されてきた。良く地域や父兄が理解して良い決定をしたと思っている。
また、教育委員会や地域を始めとする関係者の努力の賜物であり、将来を見通してここに至った結果は賞賛に値する。
国レベルの広義での考え方に立てば、財政的にも助かることにはなるが、こと、浜島町だけの財政に及ぼす影響だけで見れば、地方交付税の基準財政需要額の範囲内に収まってきた。よって、これを理由に廃校するべきものでないことの理解が今まで得られぬくかった。
真の目的は、やはり児童の教育施設だけでなく、教育を取り巻くあらゆる環境が子供たちの心身の発達に寄与するだろうとの考え方が根底にあった。
南張小学校の卒業者や、旧師にとって、母校が無くなる事への思いはいかばかりかと察するが、南張だけの問題でなく、町全体の児童教育へもプラス傾向をもたらすものと思う。
新しい時代に即した新しい考え方にたって、子供たちの未来を切り開くことに尽くして行くことのほうが前向きだ。

それにつけても、浜島小学校の通学範囲を考えると、宿浦小学校と迫塩小学校との距離の差はそんなに違わない。物事を今のレベル、今の物差しを当てて考えていては新しい時代に対処できない。

ゆくゆくは通学区の概念さえなくなることもありえよう。今の時点では考えづらいが、迫子の児童が浜島小学校へ行ったり、鵜方小学校へ通学することすら起こりえる。
すなわち、南勢町は合併の範囲と言うのは飛躍でも何でもない。

幕藩以前、奈良平安朝時代に、志摩の国の範囲は南島町のほうまであったと言うことを聞いた覚えがある。立地条件を同じくしており、歴史的にも古くからのつながりを持ち、産業も同じくしてきた。多分同じDNでもって育ってきただろうに。
交流の範囲が広まって、活性化できる。自ら芽を摘んでしまったようだ。

 

2003.4.21更新

 いよいよ統一地方選挙の告示日が明日に迫った。5日後には、これからの4年間を託すことになる町づくりの担い手である選良が誕生する。
現在進行中の町村合併が計画どおりに行けば、今回の議会議員は新市の議員としての身分を有することになる可能性は高い。

新市の人口が5万人を超え10万人未満なら、法定数は30人以内で以って議会議員の定数を定めることとなる。よって、磯部町や南勢町を含めてもこの範囲であるから、30人未満であることは決定的である。
そして、本来なら新市誕生と共に、町長・助役を始め議会議員に至るまで特別職は解職される訳であるが、今回の合併特例法の中で議会議員に関しては、特例を定めて選択の幅を広げている。

新市の議会議員となるには、まず、特例に基づかずに合併協議会で新市の議員定数(30人以内)を定めておいて、仕切りなおしのうえ新たな選挙をするのが自治法に定める本来の方法である。
次に特例法を適用して新市の議会議員を選出するのに次の2例がある。
その一つが定数特例で、新市の議員法定数の2倍を超えない範囲で定数を増加させることが出来る。これでいけば、法定数30人の2倍、すなわち60人以内の定数を合併協議会で定めて新たな選挙をすることになる。
任期は当然4年となるが、1期のみで、その後は30人以内の法定数にもどることになる。
もう一つが在任特例と言われるもので、合併前の議員が、協議で定めた2年以内の期間を議員として在職することが出来る。

すなわち、今回の統一選挙で選ばれた議員は、2007年春に任期満了となるから、この在任特例を採用し、2005年4月に新市誕生と仮定すれば、五町の議員78人はほぼ任期をまっとうできる。新市誕生後、ほぼ残りの2年間を新市の議員としての身分を有することになる。
特例法が生まれた背景を考えると、これらの内どれを選択するかは、大事の前の小事、余りこだわる必要は無いと思う。それよりも、合併の目指す本当に大切なものや、本質を見失わないように意を払って欲しい。

なお別途、選挙の方法としては選挙区と、その定数を定めて選挙をする方法もあるので新しい議員の課題となろう。
この場合は、旧町村ごとに選挙区を定めることになるのであろうが、地域利益代表の選出になってしまっては、本来、大局的な立場に立たなければならない新市としての議員活動に差し障りもあると考える。よって私個人は、人口10万人以下の市に選挙区を設けることは賛成できない。
選挙区を設けないと浜島町から議員を出せないこともありうるが、それは親戚選挙に頼ってきた候補者と有権者双方の責任であるから、冷厳に受け止めざるをえないであろう。それが、自己決定、自己責任の帰結です。

何はともあれ、5日後に控えた選挙は、我が町最後の議員であると同時に、新市最初の議員となることがほぼ保証されているようなものだ。
別な言葉で言い換えるなら、浜島町の代表としてのみならず広域圏の議員としての良識を必要とされている。
広域への視点、見識を持った人が選ばれて欲しい。

 

2003.4.11更新
13日の知事・県議会議員選挙が終われば、いよいよ町議会議員選挙に突入する。自分たちの生活に最も近い政治が、町長と町議会議員の選挙であることは言うまでもない。
しかも今回の議員選挙は、浜島町として最後の議会議員を選ぶことになる。
それだけに、今回の議員が町の未来を作ると共に、町の盛衰を左右する運命を握っていると言える。正に町の歴史の書替えに望むことであり、将来への責任を充分自覚したものにこそ、その資格が与えられてしかるべきである。首長についていくだけの議員であっては、議会の存在価値がなく議員としての使命は果たせない。自ら独自に研鑚を積み、事に当って自分の意見と見識を披瀝して欲しい。

合併問題がクローズアップされてから、浜島町に限らず合併便乗無駄遣いや、合併駆け込みやりたい放題が目に余る。
厳しい時代の到来に備えて、「乾いたタオルをもう一度絞る。」と言うスローガンのもとに取り組んできた行財政改革は、すでに消し飛んでしまったようだ。行政の継続性は町民への約束事であるにかかわらず、すべて反故になったばかりかリバウンドが起きてしまったことえのむなしさを覚える。
志と大局観が必要な合併に当って、最も必要なものを失いながら進められていく事の不条理に行き着く先を見るようで、夢や希望を失いがちになるのは私だけではなさそうだ。
ことに磯部町の加入と、南勢町の加入拒否の姿勢にますますその感を抱く。
磯部町の場合は、法定協議会の設置を5町合併法定協議会の整う6月まで待っても良かったし、南勢町に関しては門前払いをすることなく、各町住民の意思も問うべきであると思う。現に議会筋から異議が出ていることが、その非違を証明していると思うのだが。
余りにも事務処理に意を払うと大儀がおろそかになり、大儀そのものがみすぼらしく見えてくる。
南勢町との関係は昨日今日に始まったことでなく、広域行政を通じて古くから行政の一元化を図ってきたことが多くある。
殊に交流の深い当町こそ、そのつなぎをする役目と役割が与えられており、求められたら一肌も二肌も脱いでもらいたかった。ごたごたした後から認めるのは、非礼であるばかりでなく信義に傷がつく。

相手をおもんばかって事に当るのが公人としての判断でなかろうか。
何度も言うように、合併は志と妥協が無ければ成し得ない。郡内各町も合併の実を挙げるために深い理解を賜りたい。
我々が出来る自己責任の第一歩は、親戚選挙からの脱皮です。

 

2003.3.1更新  
磯部町の思いを積み残したまま、いよいよ志摩4町の法定協議会が立ち上がった。これで4町が目指した合併へのスケジュールは守られたが、拙速の感が否めず、一歩前進、二歩後退にならねば良いがと心配する。
もともと志摩5町の合併を打ち出したことから、ことが発展してきたものである。途中、枠組みでの長の考え方の相違のために、片肺飛行を余儀なくしてきたがここに来て、磯部町の参画が目前になりつつある。
新市としては喜ぶべきことであり、そのための環境づくりに努力すべきが今一番重要でなかろうか。

住民への説明も大事なことであるが、4町の枠組み自体が住民の認知を得てきたとは思えない。それよりも磯部町の参画の幅は、各種機会を通じて理解されていると思われるし、そのほうがベストとの認識のほうが強い。よって、事後承認で対処できる問題の類であり、でなければ、スタートを遅らせる選択肢が奥ゆかしく合理的であった。
また事務的にも、二度手間を余儀なくさせられるし、今から縁組を勧めようとしているときに、優位性を保とうとしているように見られかねない。

事実、他町の人が、新市の歴史の中へこれらの事実を記載することが、今回の磯部町抜き協議会の意義でないかと皮肉る掲示をしている。こんなことを歴史的事実として残すことすら恥ずかしい。
今回の法定協議会設置に至る経過を見ていると、志摩を一つにという当初の理念さえ危うさを覚える。
真に大事なのは、スケジュールを守ることではなく、志摩郡の発展であり、そのための結束であったはず。一部の地域がこれによって利を得ようと考えたり、一部の人間のためであってはならない。
合併は、志と妥協の産物であり、高い理想と洞察力が要求される。
今の物差しを当てることなく、少なくとも20年、30年先を想定して欲しいものだ。

これからも大事な決定には、議会の議決を得る必要があるため、一票を行使する4月の統一地方選挙が重要になってきた。これから選挙活動がますます活発になってくるが、町村議会議員の使命は、住民の意思をどのように受け止めるか、そしてどのように先を見通すかにかかってくる。
真の住民代表たる議員を選ぶ権利と、責任を行使できるのが今回の選挙であり、これが浜島町議会議員を選ぶ最後の選挙になるはずである。
そして合併問題は緒についたばかりであり、この先の課題の方がはるかに多いし複雑である。
首長制度をよく理解し、町の行き先に責任を感じる人こそ町を担える資格があり、高い見識と志をいかに持つかに掛かっている。
新市以降の先を考れば、旧態依然とした親戚選挙への挑戦もあってしかるべき時に来た。
新市になれば、5町で選挙人は5万人。30人の法定数の限度一杯であっても最低限1200票が必要となるだろうし、5万人規模では22〜24人程度の議員定数が多い。そうすれば当選圏は、1500票を下らない事になるだろう。
そうなった時に果たして、4900人の有権者の浜島町から何人の議員を出すことが出来るのであろうか。
選挙は、ひとり一人が政治に参加できる唯一の機会です。
託すにふさわしい人を選びましょう。

 

2003.2.20更新
はじめに4町ありきで始まった合併問題。磯部町の加入申し込みによって当初の目論見どおりに進むはずであったが、ここに来て何か訳がわからない方向を向き始めているようだ。
私の理想とするところの伊勢志摩合併をベストとすれば、ベターの広域連合合併ともども異論もあるところであるが、グッドの志摩5町合併には、合併反対論者を除けば誰も異論がないところであったはず。
それが先般の新聞報道によれば、私見とはことわりながらではあるが、協議会では4町の枠組みのままで法定協議会設置を目指す意向が表明されていた。その上で磯部町の参画を待つつもりだろうが、なんと回りくどく、そして傲慢ともとられかねない考え方には、門外漢をして恥ずかしさを覚えてしまった。
志摩を一つにとの目標を掲げながら、4町で立ち上げる必要がどこにあるのか、不可解を通り越してあきれてものも言えない。回り道を巡っていくうちに方向すら失ってしまったような志摩丸。沈没だけはまぬがれて欲しい。
各種の掲示板で、「いまさら何を言う。」と磯部町長を酷評する意見が垣間見られたが、それらの多くは単なる底の浅い感情論であり市井の若者の言、公人としての判断力からはほど遠いものであった。
4町の合併は仮の姿であり、本気に考えていたとは驚きでしかない。
最近では、磯部町長の見識こそが理想とする枠組であったとの評価に変わりつつあるが、現実には抗えず、当面、5町合併への認識が高まった。

ここに至るまで、4町にしても、磯部町にしても志摩の生き残りと繁栄を願って、その主張・方向を異にしてきただけであり、目的とするところは一緒のはず。いくら後からの参入とはいえ、それぞれが良かれと思って今日まで進めてきた道である。多勢に理があると誰が言えようか。まず大儀が大事である。
事務的なスケジュールにとらわれて、計画を実行することのみに費やす努力を、5町合併へのエネルギーに変えて行けば先の明るさが数倍増す。しかも合併、これから一緒になろうとするもの同士、わだかまりや遺恨があってはならない。
「大人は虎変す。君子は豹変す。」虎は寒くなるときに毛が変わって立派になることを言い、決して変わり身の早さを指すことではないそうです。良い方向ならば虎変・豹変するのが冷静な判断だと思うのだが。
当初の計画にこだわることこそ、事務の重複を生み、何度となく後戻りを繰り返すことになる。この際スケジュールがいくらか遅れても、仕切りなおしのうえ、5町対等な立場で協議会設置を目指したほうがより効率的で早道となる。
政府も、スケジュールには流動的に対処することに方針転換された。確実な意思さえあれば充分間に合う。
そして合併の主たる目的である飴や蜜にもありつける。

私は、飴のなめすぎで糖尿病にならないことを願うのみ。

加えて、4月には新しい選良が誕生する。新しい酒は新しい皮袋に限る。
今度の統一地方選挙の争点は、合併問題が主題となるはずである。しかも今春誕生する議会が、新市の将来の運命を担うことになるから重要だ。それなりの卓見と、責任感を持つ人に大いに争ってもらいたいものだ。
なんと言っても議会の承認を得ないことには合併も何もない。

 

2003.2.1更新  
先般の「たけしのTVタックル」では、市町村合併について国会議員等も交えて面白おかしく真面目な討論が行われていた。バラエティー構成で面白仕立てのきらいはあるが、行政の無駄に視点を当てて鋭く突っ込んでいたのが印象的だった。
中でも、今回の合併悪乗り無駄使いが全国巷に繰り広げられそうなのが、見ているものをして暗澹たる気持ちにさせられた。また地方交付税についての問題点も俎上に挙げられていたが、これについては生半可な批判のほうが多かったように思う。評論家たる作家その人がこの制度の根幹をよく理解していないのに加えて、いつもの能弁な政治家も理解の程度が浅く、見ていた国民の政治不信を招くことがなかったかと心配する。
もともと合併推進のもとになった合併特例と言う飴玉の大部分が、この地方交付税にかかわるものであり、一時的にこれを餌にして市町村の合理化を進めようとしているのが一連の平成大合併の騒動です。本来地方交付税制度は、全国的に平準化した行政サービスを提供する目的で、国税の一部を地方公共団体に交付するものですが、最近はマスコミでも取り上げられるように都市部の批判の声が高まりつつあります。
この地方交付税の算定は、それぞれの自治体の行政需要を測定する基準(測定単位)に、標準の費用を乗じて基準財政需要額を算出し、所定の基準財政収入額との差を補うものです。その需要額の基となる測定単位の種類は無数にありますが、おおもとは人口であり、標準の費用となる単位費用を算出する基準の市町村規模が10万人であることに大きな意味があります。
単純に測定単位ごとに比例按分すれば、小規模市町村の固定費用がまかなえないため、測定単位に補正係数を乗じてこれを補完しているのが現在です。それが今後の改正を通じて、補正係数の比率が薄れていくであろうことが示唆されております。なぜなら、国がこれほど市町村の自立を前面に打ち出し、自己責任を押し付けようとしていることは過去にはなかった。
また、地方分権の本旨は国の関与を少なくし、自己決定・自己責任で自治体を経営することです。加えて、地方交付税は国税の一定額に決められており、その不足額は現在借り入れによってまかなわれているが、それも限界にきているはずです。
交付税総額が決められているという事は、合併特例によって将来追加される交付税の財源を作るために、前述の単位費用を削って帳尻あわせをするか、もう一つには、基準に満たない町村の自立を促進するために、補正係数を下げれば自然に交付税財源が生まれるという手法が採られると思います。
何の事はない、もともと地方に廻さなければならない金を餌に、合併分捕り合戦を仕掛けられているようです。本来自分が手に入れるべき金を、あたかも貰ったように錯覚し散財してしまっては笑い話にもなりません。
私は合併を否定するものではなく、積極的に推進することを望む者の一人です。ただ地方交付税制度の今後の変化等を考え合わせていくと、現在の4町や5町の合併に大きな危惧を抱いております。近隣が力を合わせ、増大する行政需要と厳しい財政事情に対していかないと破綻の道が遠からず来ます。
現に最新型の溶融炉・ごみ処理施設を建設する場合や福祉施設の経営には、10万人を超える規模でないと非効率でしかないからこそ広域連合や各種行政組合の存在理由があるわけで、行政の2重構造の解消も課題のはずです。なぜこんな枠組みにこだわってきたのか、今一度振り返って見て、小事を捨てて、大事をなしてもらいたいものです。絶対に今までの作業は無駄ではない。
今後もこの枠組みでの選択よりないとするなら、まず以って中央庁舎の建設は止めてもらいたい。人口集中地域も意図的に作る必要はなさそうです。志摩市の期間はそんなに長くはなく、追っ付け更なる合併に早晩向かうことになると思うからです。
合併特例債は、真に将来への布石となる事業にのみ使ってもらいたい。英虞湾架橋に全額を投じて行くのも一つだと思う。目先のことに取らわれて、手段であるべき合併が合併特例を手に入れるための目的に摩り替わってしまって行くことに憂慮します。

 

2003.1.8更新   

 明けましておめでとうございます。輝かしき新年を迎えて心改まる思いをしていることとお察し申し上げます。
さて、今年の初日の出は低い空を帯状の雲に占められ、横一条の陽の光に終わりましたが大変穏やかな元旦を迎えることができました。この一条の光が、私には昨年末に磯部町の合併参加要請という希望の光と重なり、満足いくものではないながら一抹の光明を得た思いをいたしました。

いよいよ五町そろって運命共同体のテーブルにつくことができたようですが、これでもって広域への波動を消してしまってはならないと思います。つまらぬ感情論や過去のいきさつを捨て、遠大な計と賢明な理論で五町が核となりよりよい新市作りへと進んでもらうことが現世の責務ではないでしょうか。
時あたかも新年、心新たにして大計を立てるにふさわしい時期です。

合併後30年を得ずして三重県がなくなるという初夢を見ました。そのときの新市のあり方を想定すれば、この地域としては伊勢市連合30万人都市づくりを目指していくのが大計でなかろうかと思う次第。そして、その前提としての広域連合への夢をいまだに捨てきれません。今の時代、五町合併など10年の計にしかなりえず、少なくとも30年〜50年の計を持ち合併の実を挙げてもらうことを最後まで叫び続けたいと思います。
今回の合併のキーワードとされているのは、
自立個性競争である。今の新市が果たしてこれらを手中に出来るのであろうか疑問である。何とか手に届きそうなのが個性であるが、これすらあまりにも規模が小さくその個性が埋没していく恐れがある。
昨秋、鹿児島へ旅行してきたが志摩の存在などかけらもない。枕崎や山川など志摩とも縁のある地域ですら鳥羽も志摩も認知度が低い。日本人の心の故郷である伊勢に至っても全国ベースでなくなってきている現実がある。
加えて、10万人規模で最小と言われる将来見通しが示される中で、6万人の新市では基礎体力の不足が明確であり、いくら頑張っても自立や競争などに問題があることは言うまでもない。鳥羽と合併すると、志摩の真珠のお株を鳥羽に取られるという馬鹿げた意見をはく人がいるが、まるで本質知らずの狭小な考え方である。産地化やブランド化をするには、生産量を確保することがまず大事であり、近隣が連携してこそ成果を得られるものである。
また、鳥羽市や、南勢町・南島町の孤立化は志摩市にとって有益でない。それぞれの立地条件、産業構造、歴史的背景などから近い将来必ずや連携の時期が来ることには誰しも異論がないのではなかろうか。もし他の地域に吸収されたら、それこそ志摩の新市が孤立することになってしまい、今の皆さんの努力が無に帰すだけでなく新市にとって弊害となることを恐れます。
高い志と妥協がなければ真の合併メリットは得られず、最初の思い込みや力任せでは未来に必ずや禍根を残すことになるであろう。今までの新市のスタンスは
去るもの追わずであったが、今年からは来るもの拒まずの度量を示すことによって、目指すべき新市の存在価値が高まると思うのだが。
願わずば成就なし

 

2002.12.1更新
志摩地域の合併については、先に郡下4町で作る合併問題協議会の中間答申の発表によって、新市の街づくり将来構想の概要を知ることとなった。そしてまたつい最近、住民アンケートの内容も新聞報道されたし、浜島町では5日に住民懇談会も開かれる運びとなっている。いよいよ合併への環境は整いつつあることがわかるが、問題は合併の暁に、果たして合併メリットを生かせるかどうかに掛かってくる。
いま進めている4町合併でも何千という協議案件があり、それぞれの担当者は苦労するところではあるが、これ以上の達成感を味わえるものは少なく、全精力をつぎ込んで悔いを残さない仕事を達成して欲しい。苦しみが大きいほどその喜びも大きくなるものだ。今現在このような大きな変革に取り組める幸せは、それぞれの足跡が新市に残り、将来、振り返ったときに何にも変えがたい喜びを得ることになる。
ついては合併の市町村数が増えたからといって、意見の数は別として協議案件が比例して増えるものでない。協議案件にしても、合併の原理原則を政治が明確にすれば解決するものが大半であり、数にばかり捕らわれて射すくめられていることはナンセンスである。明日の仕事を思い煩い、今日の仕事に手がつかない愚を冒す事はない。
中間まとめたる将来構想案は良く出来ており、合併の範囲を広域連合まで広げても十分対応できる内容と言える。標準市町村規模は10万人、20万人が効率的規模と聞く、積極的に誘ってもらいたい。
政治の要諦は合併という手段を達成することではなく、来るべき地方分権時代に自立のできる行政体の成立を目指すことにある。その点現実に目を向け、与えられた仕事を遺漏なく処理する役人とは根本的に異なる。常に未来に対する洞察力をもって事にあたり、英断を持って変化に対応してくれることを最後の最後まで期待して行きたい。
地方分権社会の求める自治体の役割について、中間答申で示される1大プロゼクトの英虞湾架橋を一例にとれば、国道とは言え費用の負担を求められるのが新市となる社会構造である。英虞湾架橋は志摩郡にとって最大の懸案プロゼクトであり、その必要性は衆目の一致するところであるが故に、その実現を決めるのも自分たち、その責任としての費用負担も自分たちということになる。そうなったときに5万人都市で果たしてこの英虞湾架橋計画を進めるができるのであろうか。たなぼた期待の計画は一歩も前進しなくなるのが地方分権の本旨であり、険しい道のりながら大事業をなせる力強い行政を作っていかざるを得なくなる。真に英虞湾架橋への道を選択するなら、力強い大規模合併を目指していかないと、結果的に、架橋より先に新たな合併の方が先立つことになってしまう。それでは今の職員の苦労が無駄になる。
目先の利に走らずに近隣市町村との信義を貫き、来るべき未来における地域の繁栄を作るのが現世代の努めと思う。甘いえさは一時で消えるが、近隣市町村との信義は万年続く。
少なくとも志摩郡は一つ、何かにつけて運命共同体である。今一度、4町も礒部町も悔いを後世に残さないために冷静に考え直して欲しい。

 

2002.10.11更新

Yahooの掲示板ホーム>政治>地域別>三重県 を閲覧してみた。見えないところでも志摩の合併論議が華やかなのが頼もしい。市町村合併やじうまトピ と 何を考えてる?磯部町長!がこの地域の合併を主題にしたディベート。トークバトルの炸裂に圧倒される。それぞれの思いが強いために恫喝、中傷ともとられかねない激論ではあるが真摯な意見交換と考えれば、多くの人が参加して意見を戦えば良い。
志摩郡四町に固執した立場の人、それに危惧する人、大規模合併を理想論と一蹴する人、あくまでも理想を掲げながら志摩五町合併に望みを託す人、世の中にはいろいろな人がいるように考え方も様々です。しかし、現状路線の四町合併にこだわりを持つ人が、将来のある若者であることが私をして不安に落としめさせる。走り出したものを呼び返すな、いったん船を下りておきながら何を今更などと言う狭小な考え方に危うさを覚える。もっともっと懐の深い思慮をもってこそ永い良い付合いの切っ掛けが出来る。多数の論理、強者の論理を振り回していては良い知恵も出ないし、偏見や排他的な考え方では未来を切り開くことはまず出来ない。時間が無いなどと考えずに、また政治の世界とは別に、若者らしく最後の最後まで理想社会を追い求め続けてもらいたいものだ。平安を求めて安易な選択肢を選ばずに、困難に立ち向かう姿勢こそ若者の気概であった。
今、最も恐れなければならないのは、目的と手段を混同してしまうことである。本来合併が求めるのは、行政の簡素化を図り地域住民が責任と権限を持って運営できる自治体を作り、地方分権を手中にすることことにある。それがなおざりにされて、合併そのものが目的になってしまっている感のする現在の風潮を憂慮する。そこから得られるのは合併補助金のみであり、新たな借財と無用の長物を抱えて次の合併へのスタート台につくことになりかねない。ちょうど原発開発交付金によって、立派すぎる箱物施設が出来た市町村をそこに見てしまうのは余りにも悲しすぎる。
私は一時の合併補助金より志摩郡五町の信義を大事にしたい。郡下の連帯感を失うぐらいなら四町合併など消滅しても良いと思っている。それどころか将来のために積極的に消滅させたほうが良いとさえ思う。四町合併でも、一市七町合併でも議員数は変わらない。と言うことは四町から次に進む道は閉ざされると考えざるを得ないからです。今、困難を乗り越えておかなければ必ずや将来後悔することにを恐れます。今、大事なのは補助金ではなく、志摩郡の和であり一丸となった町作りこそかけがえが無い。仮称志摩市から磯部町の抜けた不利と、鳥羽市の参加した不利との間にどれだけの差があるのでしょうか。それよりも有利を探すのがプラス思考と言うものです。
今回のノーベル賞受賞者のお二人ともが、いみじくも言っている言葉は「暗いほうを向かずに自信を持て。」、「苦しいときにこそチャンスがある。」と言うことです。面倒だからやらなかったり、困難から逃避していては新しいものは生れないと言うことなのでしょう。それに、田中氏が所属する島津製作所からの業務命令は、「すぐ製品に出来るものは考えなくて良い。先を見よ。」と言う環境であったと言うことです。先を見越すことが良い仕事につながります。今は、志摩市誕生への産みの苦しみの中に入っております。孫子のために今やらなければならないのは、小事を捨てて大道への道を選択することではないのでしょうか。
“着眼大局、着手小局”と言うことは承知の上で、磯部町の抜けた志摩市の再考を求めたい。

 

2002.10.1更新
離職後2年を経た。ややもすると惰性に流れがちな日常を支えているのが読書と、コンピューターという味気ない生活にもようやく親しんできた。
新聞報道によると磯部町の合併問題が各町に波紋を投げかけているようだ。今まで広域連合を構成する一市七町の枠組みを主張し、志摩郡五町合併に参画をせずにあくまで大きな規模の合併にこだわってきたところであるが、現行の志摩郡四町の独自路線に風穴を開ける事は出来なかった。本来市町村合併は、磯部町の主張するように前向きであるべきものが、小さな枠組みにこだわり続ける四町合併に自分としても大局的なメリットを見出せず、今の今でもいささか拙速の感を否めない。
一市七町の枠組みはすでに広域連合として機能しており恐れることはない。反対に、この連合にごみやし尿を押し付けながら別の道を歩もうとすることに連合の危うさを覚えてしまう。1連合の中に、三つの枠組みが存在するという今の合併枠組みが整理できなければ、広域連合で取り組んでいる重要問題も今後先行きすることはむずかしく、連合の設置意義も消滅することになるのだろう。
志摩郡は磯部町の志摩用水で水危機を乗り越えてきた恩義や、し尿処理では多大な迷惑をかけてきた歴史を忘れてはならない。郡下一の最大の功労者といえるのが磯部町であり、磯部町の犠牲無くして志摩郡の発展が無かったことを思い起こす必要がある。加えて土地面積も広く、浜島町の3倍、大王町や志摩町の5〜6倍、郡下のすべての道は磯部町に通じているという地の利も得てポテンシャルが最も高い。
今後も磯部町抜きで志摩郡の発展はありえないと言うのが私の認識である。磯部町のエゴを許さない、磯部町を横紙破りとするのはいささか独善的な四町の判断のように思う。
4対1で正義を振りかざすのではなく、立場の強いものがへりくだり、礼を尽くして先に手を差し伸べるのが君子の取るべき道である。

また浜島町と宿田曽との関係は運命共同体であり、南勢町との連帯も忘れてはならない。すでに消防組織等一部事務では六町体制が確立しており、今、志摩郡という枠組みにこだわることは何も無い。中長期的に考えれば南勢町については連結することの意義が大きいに違いない。浜島町がこの連携の命運を担う大きな立場にあることを前々から主張してきたが、志摩郡を一つにするために磯部町の世論が1つではなくなってきている今が最大の山場であり浜島町の出番である。
磯部町の世論を1つにしてから四町に話を持ってくるべき等とは、強者の論理であり志摩郡を1つにという理想から程遠い。最低限の理想実現のために四町も努めて欲しいし、今こそ浜島町の働きが平成合併の命運を担っているという意識の上に立ち坂本竜馬の実現に期待する。
南島町は遠くてなじみが薄い、鳥羽市は倣岸でわがままなど個人的な思いはあるが、小事にこだわらず、南島町も鳥羽市も連携の意志があるなら大同合併への道を進める良い時期に入った。その後に伊勢へまで視点を伸ばそう。

*前回述べた町としての団体意思の決定に当たって、町長と同等の権限を擁するのは議会であり個々の議員ではありません。言葉足らずをお詫びします。

 

2002.7.28更新

暑中お見舞い申し上げます。早くからの台風襲来は無事乗り切りましたが、本格的な夏の訪れに伴い健康を害する方もあろうかと思います、ご自愛ください。
今この暑い中、全国各地の市町村で暑い議論がなされているのが市町村合併問題です。当町地域では郡内4町で合併任意協議会が設立され、今、具体的な町づくり計画などが協議がなされております。市町村合併は、平成12年4月に地方分権一括法が施行されて、新時代にふさわしい地方自治の実現に向かい自主的・主体的に自らの行政を行うことを目的に進めことになりました。そこでは自己決定・自己責任という地方分権の原則の下で、市町村が地域の個性を活かした主体的な施策を積極的に展開していくことが求められております。よって、その実現を達成するためにはある程度の規模と力が必要であり、単に複数の町村が連結しただけではその責任が果たせません。
江戸幕府の末期には、幕府は言うに及ばず各藩財政も破綻状態に陥り、更なる重税が農民を苦しめ一揆が全国的に広がっていた。幕府は太平に流され統治能力もなくなり、手をこまねくばかりの惨状となる。加えて、列強の脅威に備えて開国論が盛んになり明治維新となった。
現在の国政もよく似ており、バブルの夢を追いつづけた挙げ句、国・地方を問わず財政破綻が目前に迫っており、借金によってかろうじて現状を維持しているに過ぎないと言える。そんな中で小泉首相の構造改革や、町村合併問題が惹起されたわけであり、将来を見据えるならば賛否を議論する問題ではなく、両方とも今すぐやらねば日本も浜島町もなくなる運命と言う危機的状況であると言えます。そんな中で、前町長は人件費を始めとする経費の節減に努め、健全財政を維持してきましたが、それも風前の灯火となって来た今、合併は避けて通れません。
ただ、目先の補助金等につられて合併を焦ると、元市町村での放漫経営、無責任経営につながり、将来に渡ってその付けを払わされる事になりかねない。また合併に大きな期待を抱かせる論調もよく聞くが、市町村合併がその町の夢や希望を叶えてくれるものでなく、これが実って大きな花が咲くと考えるのは間違いです。
しかし、現状の日本を客観的に見た場合、他に選択肢がないと考えざるを得ない状況にあります。よって、その枠組みについては遠い将来を見通した大局観をもって望んで欲しいと考えるのは私だけではないでしょう。今、5万人規模でこじんまりとまとまるだけでは、初期の目的である市町村の自立などおぼつかなく、基礎体力を養成するためには少なくとも10万人規模にまで持っていかねばならないと思います。可能な限り、最善の30万人規模への努力を最後の最後まで払いつづけて欲しい。現在の4町合併の範囲拡大を推進できるには、浜島町の努力に尽きると考えるのは現状認識の誤りなのでしょうか。磯部町に手を差し伸べられるのは我が浜島町だけであり、磯部町が手を差し出すのを待っているのは無策であると思います。この際、礼を尽くし頭を下げて磯部町の参加を促す事が、大儀のために必要であり、それをすることよってこそ浜島町の権威が保たれると思います。場合によっては、4町合併からの離脱をも視野に入れるぐらいの覚悟を持って、磯部町と共に10万人都市への道を突き進んで欲しい。
合併のための合併、補助金のための合併は悪害あって益すること無し。

 

2002.6.29更新
今回、経済団体が主流となって伊勢志摩を1つにと言う合併構想が打ち上げられた。これに先立ち市町村レベルでもこの動きが合ったのに、早々とその幕引きが成された裏には何があったのか知るよしも無い。
現在、浜島町を取り巻く広域圏の枠組みとしては、@志摩郡五町、A鳥羽市、志摩郡五町、南勢町、南島町B鳥羽市、志摩郡五町C伊勢・度会、志摩郡の2市十二町などがある。このような中で今、我が浜島町が進めているのは、郡内四町合併と言う別の選択肢である。
最低の単位である@の選択肢が磯部町の反対によって成立しなくとも、合併メリットをより確実に上げるにはA、Bの選択肢はよりベターな筈である。自分としては磯部町の主張の方に先見性を見い出し、目指すべき広域圏の姿が見えていたと思ったが、早々と四町合併と言う、形だけの合併に終えていきそうなことが残念である。
人口5万人規模では目先の合併財政補助のみで、本来目指す合併メリットが何も生かされないことになる。合併によって互いの足らないところを補うと言う、町村間の大局な合意が無いと、合併のための合併で終えることになりかねない。現にこの枠内で、懸案のし尿やごみ処理の問題一つをも解決できる予想すら出来ず、現在進行中の広域連合事業にも少なからず悪影響を及ぼしていると推察する。
我が浜島町は、磯部町と共に行動する事が広域圏の連帯を助け、ひいては志摩郡のため、我が町のためになるのではなかったかと言う思いにかられてならない。規模の小さい合併では、浜島町が、リゾート地としての意味合いすら危うくなりかねないと思うのは思い過ごしか。合併に意義を見つけるのでなく、住民生活の向上のための合併があって欲しい。人口5万人では市として、最も危うい規模の上に立ち、財政も人材もサービスも何をとっても得るところ無く、現在の問題をより大きくするばかりである。新市成立と同時に、直ちに再度の合併へのスタート台に立たなければならなくなると考える。
もともと合併で目指すべきは、地方分権と財政改革であった事を考えれば、その線は自ずと30万人規模と想定されてきた。Aの2市12町村でも27万人、そんなに大規模なものでない。現在でも、地方交付税制度上の標準人口は10万人である。その枠を下回る合併に意味の無い事は役所の人間になら分かっている筈である。このまま四町で検討続けるのも悪い事ではないが、ベストのCとまでも行かなくとも、実際踏み切るのはA、Bの線を最低の単位としておいて欲しい。時間的な問題はあるが、こんなものはいくら検討しても結論は一緒、合意さえ出来れば半年もあれば出来る問題である。その為に磯部町とのパイプを強化するのが浜島町の役割であり、今の段階で充分な検討を加えておけば、現在の任意協議会の活動は決して無駄でないと思う。
走りながら考えたほうが良い問題であるように思うのだが。
小成を捨て大成への道筋を示して欲しい。