essay
いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む … といえば、牧水の歌が浮かぶ。
下の句はこう続く。 このさびしさに 君は耐ふるや。
私は、日本全国、端から端までかけ巡る旅を続けてきた。
土地土地、その季節ごと、折にふれ感じるものがあった。そんな旅のあれこれを語るとしようか。
神戸から福岡まで、幾度となくフェリーを利用したことがある。現在のことについては知らないが、その当時は本四架橋が完成してそれほど経っていなかったせいもあってか、橋の下を通過する少し前に(間もなく橋の下を通過します)という船内放送があり、急いで船室からデッキへと走って行って、巨大な橋を見上げたことがある。車で橋を渡っている時は、つり橋の支柱の高さやワイヤの曲線の美しさなどを感じるが、車の速度の加減もあって一瞬一瞬の風景であるが、船の速度の中で見上げる巨大な橋は、言葉の無い神話なのだ。
今までに幾つものトンネルを車で走ってきたが、数多い日本のトンネルの中でも、海底をくぐっているトンネルは数えるほどしかない筈である。青函トンネルよりもずっと早かったはずだから、車が走れる海底トンネルとしては日本では一番早く開通したものではないだろうか。その順番はともかくとして、このトンネルを車で走る度に、ふとトンネルの天井をフロントガラス越しに見上げてしまう。海底の更に下を走っているとは思えないからである。何の苦もなく(お釈迦様でも気が付くめい)をやらかしてしまうのが人間なのだ。
このお寺は旧寺名を(穴師寺)といい、最初の建物は白鳳時代に創建されたという。本尊仏は慈母姿の如意輪観音像で、本堂の規模の割には極めて大きめの厨子に納められている。住職にお願いすれば、間近で観音像を拝観できるが、如意輪観音像もさることながら、仏像が納められている厨子も見事なもので、三重県下にあっては第一級のものであろう。30年あまり無住寺であったために、随分傷んでいるが、現住職が少しずつ修理・復興を試みている様子。志摩の地から微力ではあるが、僅かなりとも応援をしていきたいと思う。
三重県では海岸沿いに、時たま見かけるが、内陸部でこれほどまでに大きなホルトの木を観たのは初めてである。目視で3・5メートル以上はあるだろうか。境内の斜面ギリギリの場所にあり足元に注意が必要であるものの、その幹の樹皮が醸し出す質感は、正に見事の一語に尽きる。更にこの境内には、2メートル前後のものから3メートルを超えるようなものまでの大きな木が10本ほど有り、夏ともなれば賑やかな蝉の声がして、ひとつの季節を強く記憶できるのではないだろうか。岩にではなく全身にしみいる蝉の声の筈だ。
金剛座時からさほど遠くないところに普賢寺がある。木彫の普賢菩薩(重要文化財)がお堂の中に祀られているのだが、駐車場が小さいので、大きめの車で行くと車を止めるのに難儀する。丘の上に在り、境内は一部雑木林と接するが、全体的には民家風の雰囲気で、普賢菩薩がおさめられているお堂だけが浮き出ているように観える。このお寺には円空仏も一体あり、住職に見せていただいたことがある。小柄ではあったが、見た目とは異なり、懸命に説明をしてくれた。いくらか古い日の話ではあるが、今も健在でおられるだろうか。
別段、是と言った特別のものが観られるというお寺ではない。巨木も無ければ重要文化財も無いし、特別変わった建築物でもない。池田川(2級河川)の傍に建つ何処にでもあるようなお寺なのだが、この地区の盆踊りは、近年地区の公民館の広場に代わるまでは、この寺の境内で行われてきたのである。この界隈の盆踊りは、踊りが始まる前には太鼓(磯部太鼓)が打たれ、腕自慢が入れ替わり立ち替わりして打つ。踊りはその後なのだが、堂内では新盆供養の御詠歌やおリン・鐘の音と相まって、摩訶不思議な時間が紡ぎだされたものだ。
青峯山・正福寺、志摩半島きっての古刹である。伊勢志摩サミットでカナダの首相夫妻が訪れて、広く世に知れ渡ったが、静かにゆったりとした時間を僅かなりとも自分のものにしたいと思うなら、これほどの所はそう多くはない。静謐な沈黙の中で、自らと自然との融合を図ることが、いとも容易く叶う所なのである。神宮の視覚的静寂ではなく、イメージを展開させていく沈黙でもない。ほとんど人に出会うことも無ければ、要らざる土産物屋も無い。有料の駐車場も夕刻のチャイムも無い。どこまでも深い沈黙の世界と「仏」。
定義山・西方寺。山号は極楽山なのであるが、土地の人に聞くと定義山のほうが一般的であると教えてくれた。宮城県にあっては珍しく桧皮葺の五重塔がある。建立されて間もない頃に初めて参拝したが、久しぶりに尋ねたら、随分と落ち着いたたたずまいを見せていた。何でも人生の大願を叶えてくれるという、野心家にとってはニンマリとしたくなる如来様である。ただ此処のお寺は、建築的に観ても、以前からある山門や他の建物も、極めて優れた彫刻が建物全体にあり、しかも保存状態も良い。(三角あぶらげ)も久しぶり。
アマゾン川流域に住むある種の部族にはリカージョン(再帰)が無いという。簡単に言ってしまえば、と言いたいところなのだが、これを説明するといつもの行数で納めるのはいささか難しくなる。いずれにせよ一つの部族が使う言語にリカージョンが有ろうと無かろうと、他の国や民族にはさして問題はないのである。しかしながら、一度この現代社会へ目を向けるとき、私たちの日常にリカージョンが存在するかと言えば、案外ある一定のレベルを保ちながらの会話は、なされていないように思える。文法どころか単語すらない家庭。
大仏殿を見下ろすかのように法華堂がある。一般的には三月堂として知られているが、個人的には法華堂という名称が気に入っている。このお堂、拝観料を払った部屋から,いくらか下がった部屋へ入っていく。足元に注意しながら、顔を上げると、須弥壇中央の不空ケン索観音が眼前に。正面に位置して見上げ見つめる。今までに感じたことの無い圧倒的な宇宙が展開されているのを感じる。夏の盛り、首筋や額に噴きだす汗、蝉の声を耳の奥に、じっと佇む。今日の道をもたつきながら、さて人は何処へ帰って行くのだろうか。
千葉県市川市中山にあおる日蓮宗の本山である。山号は(正中山)寒の100日の大荒行をするお寺として有名であるが、観光としての寺社仏閣とはいささか趣を違えるせいもあって、関西ではあまり知られていない。山門の前には手相・人相の占いをはじめ、様々な出店が立ち並ぶ。大荒行の時期に参詣すると、修行僧の唱えるお題目で、お山が鳴動する様である。多くの堂塔伽藍の中でも、お勧めは大祖師堂の建物である。現在は創建当時の比翼入母屋形式の姿に戻されていて、建築学的に観ても極めて珍しい屋根の形をしている。
最近の奈良の寺社仏閣の修復・再建工事には目を見張るものがある。ところでこの海龍王寺であるが、私がまだ若かった頃は、このお寺ばかりではなく、他の奈良や京都のお寺も荒れた状態のものが多かった。それが近年、お寺も仏像も修理を終え、見事なまでに復活を遂げている様は、あまり信心をしない私が観ても爽やかな感じがして心地いい。とこでこの海龍王寺、かつて空海が大陸へ渡るとき、航海の安全を祈願するのに詣でたと言われている由緒あるお寺であるが、名前の割には訪れる人は少ない。人気は何によるものか。
登る前は、さほどの高さでもないかと思ったが、上からは前後に奈良盆地が見渡せ、万葉の世界が眼前に開ける。畝傍山・耳成山・天の香久山、さながら時の方舟の中を覗きこんでいるかのような眺望である。ペットボトルのお茶を飲み干して、ゴミ箱を見やったが見つからない。仕方なくベンチに置いたバッグへ入れようと振り向いたら、何と大きな岩をくり抜いて、ゴミ入れが差し込んであるではないか。一見してそれとは分からないような配慮に感心した次第である。しかし此処まで景観に配慮したゴミ入れを見た記憶は無い。
7月2日、クマゼミの鳴き声が聞こえてきた。大合唱である。未だ梅雨明けの発表はないが、とにかくその鳴き声たるや、待ちに待った夏が来たというよりは、世の終わりがやってきたとでも言わんばかりの鳴き方である。ところでこのクマゼミの鳴き声について、(シワシワシワ)なのか(ワシワシワシ)なのかということなのだが、言葉を重ねていくと同じになる。ただ蝉の鳴き出しが(ワシ)なのか(シワ)なのか、個人的には(ワシ・派)なのだが、周囲に確かめてみると、あまり意識していないのか(さあ?)の返事である。これは蝉に聞くか。
我が家の畑にイノシシが出現した。畑と言っても家の裏にある50坪程度の畑で、ミカンやクリ・柿の木などが植えてあり、今の季節は夏草が茂っている状態なのだが、ある日の朝、まるで耕運機で耕したかのごとく、土が掘り起こされているではないか。有難いという思いと同時に、厄介な奴がやってきたなと感じた。昨今、田圃や畑を作らなくなったから、野性が一気に領域を広げてきたという状態である。奇妙なこの時代にあって、自然の暗黒が生臭い息を吐きながら、ジワリと人間の未来を破壊すべく迫ってくる気配がする。
最近は(きんこ)の名称で商品化され、広く販売されている。本来(きんこ)とは干し芋だけを指すのではなく、ナマコなどの海産物も含め、干物そのものを指していった言葉である。ところでサツマイモで作るきんこは、きりぼし・にっき・にっきんちょん等、その呼称は様々であるが、いももち・こいも等は、いったん餅のように搗いてから色々な形に形成して乾燥したものである。麦芽を入れた地区もあるが、概ね(阿児・志摩)地区は入れない。現在作られることはほとんどなく、洋菓子に押し出されてしまった。舌も美人が好みなのか。
小学生の頃は、季節にもよるが、晴れてさえいれば毎日のように魚釣りに行ったものである。それと言うのも、丘の上にある我が家から300メートル程坂道を下れば、英虞湾が広がっているからである。伊勢湾台風やチリ津波などで海岸線や英虞湾内は大きなダメージを受け、その前後では様相が一変する。湾内では真珠筏や真珠貝・作業小屋が大きな被害を受けた。それでも鰈等は僅かの時間で2-30匹程釣れた。其処にはまだ長閑な時間の流れと自然の豊かさがあった。それに比べ現在という時間の中で、何もかもが危うい。
(昔)と言う言葉を最近よく耳にする。しかもその言葉を口にする世代が若いというよりも、幼いと言った方がいいくらいの年齢にまで及んでいる。未だ小学生の低学年と思われる子供が、(私、昔ディズニーランドに行ったことがある。昔、お父さんと魚を釣ったことがある等々)といった塩梅なのであるが、言葉の選択を間違えているのか、それともどの程度の時間の経過を経て現代社会は過去を昔と言うのか、そして今の私は、言葉の感覚としては今浦島に成り果ててしまったのだろうか。私の(昔)にはまだ大八車が行き交っているのだ。
今で言うところのビーチサンダルか。私がまだ幼かった頃、近隣の老人は未だ藁草履を履いていたという記憶がある。その藁草履が、ある日を境に、と言うくらい急激にゴムの草履であるアサブラに変わった。ところがこのゴム製アサブラ、足の裏の本体が直に擦り減って、ペラペラの皮状態になってしまうのである。未だ道路がほとんど舗装されていなかった田舎道、雨でも降ろう事なら、薄くなった踵のゴムで、お尻どころか頭まで泥をはね上げ、後ろ全部が泥だらけになったのである。泥がはね返る路が無いのは文化的なのか。
これは自転車のライト用の発電機で電気をおこし、その電気を川や湖の魚がいそうな場所へ流して、魚を感電させて獲る方法である。むろん危険であるため禁止されていた漁法であるが、私がまだ子供の頃には、遊びの一環として、子供たちの間でも普通に行われていた方法である。なかにはウナギを捕まえることを生業としていた大人もいたが、概ね子供たちにとっては、フナなどを獲るための遊びでしかなかった。ところでこのジィージィーという言葉は、自転車のペダルを回す時に生じる、タイヤと発電機との摩擦音である。
ぶらり散歩して、なぜか心休まる気になるのが野良道である。一応のいでたちで山道のハイキングも悪くはないが、何となくぶらり歩きは野良道が良い。確か正岡子規の(不平十ヶ条)であったと記憶するが、その中の一つに(野良道の真直について居らぬ不平)というのがあった。しかし野良道の良さは、適当に、そして気紛れに曲がっているのが良いのであって、まっすぐな道で、そのあげくに舗装でもされていようものなら、正に野良道の風上に置けない。庭園などに見かける苑路と同じで、真直ぐなもののすぐ先は、ものの終わり。
神社の境内に見事な杉の大木(7,4メートル)がある。伊勢白龍大明神として祀られている。土地の人の話によると、昔この杉の大木に白蛇が登るのを見た人が、大阪に出て行って商売で大成功を収めたということから、仕事が上手くいくように願うと、運気が開けるという。直ぐ近くに駐車場もあり、境内には他にも数多くの大木がある雰囲気のいい神社である。杉の木の下に立ち、何を思うでもなく、じっと見上げてみると千年も前の風の音が聴こえてくるような気がする。闇の心を開いてくれそうな、不思議な生の始めを感じる。
天手力男命を祀る。境内はよく整備されており、神社独特の静謐な沈黙を醸し出していて、格調の高さを感じさせる社である。手力の大桧や夫婦杉の大木(根幹部がくっ付いた合体木)等、観るべきものも幾つかあるが、(やすらぎの神〉という神様の小さな祠もある。今まで聞いたことの無い神様の名前であり、一瞬(へえっ?)と思った次第である。参道や社殿の周辺はよく清掃などがなされており、ある種の緊張感を抱かせる。周囲の喧騒に比べ、清潔感のある空間に神の沈黙が広がる。そして参道には、私だけの歩いていく姿がある。
正月の飾り付けの一つにツボケというものがある。ツボキともいうが、藁で編んだロート状のもので3個か5個を束にして門松に括りつけ、松の内の間食べ物を供える。もともとは家族の人数分を取り付けたともいわれているが、そのツボケへ食べ物を供える時に言う言葉が(ベスコ・ベスコ)なのである。どういう意味なのか分からないまま今日に至っているものの、奇妙な言葉である。今は亡きいとこが(多分、恵比寿来い、恵比寿来いがつづまったものではないか)と言ったことがあったが、案外大して意味の無いことかもしれない。
奈良と三重の県境に位置する峠である。眺望の良さそうなところで車を止め、腰を伸ばしながら車を走らせてきた道を振りかえってみる。眼下には遠く幾重にも重なる青い山の数々が一望できる。はるか遠い昔、万葉の歌人たちもこの峠を越えて旅に出かけ、旅から帰ってきたのだろう。(かぎろいを観る会)というのがあるというのを旅の雑誌で読んだことがあるけれど、もしこの峠から見渡す天空に、真っ赤な朝焼けが展開されたとしたら、古の歌人ならずとも暫し我を忘れて佇むであろう。そして古人と同じように(かへり見)するか。
三重県と奈良県の間に、和歌山県の飛び地がある。別段彼是という話ではないのだが、車を走らせていて、ふと奇妙な感覚になったことがある。道路沿いにある人家に止めてある車のプレートが、三重から和歌山、そして奈良・和歌山・三重なのである。極端な話、お隣さんが県外で、その向こう側が別の県なのである。さしあたり是といった問題は無いのであろうが、もし時空を超えて縄文人がこの現実を観たら、石斧の柄を握りしめたまま、文明の彼方の不思議な光景に雄叫びを上げ、感動の踊りを神と現代人に捧げるだろうか。
6年ほど前、東大寺仁王門を通り抜けてすぐ左脇に東大寺ミュージアムが出来た。入口の前に大仏様の左手(原寸大のレプリカ)が展示されている。館内の展示で感動させられるものは、極めて曲線的な美しさが表現されている千手観音菩薩立像と、五劫思惟阿弥陀如来座像であろうか。とりわけ五劫思惟阿弥陀如来座像は、その座像を創造した人間の想像力の逞しさに感心させられる。誇大表現の一つに、白髪三千丈なるものがあるが、五劫という時間のなかで伸びた頭髪の質感・重量感は、人間が表現した最重量のものであると思う。
(くすべ)とは燻べるとか燻べをするといった風に使う。これはもみ殻などに火を点けて煙らせることであるが、燃え立たせるのではなく燻ぶらせることである。土壌改良として籾殻を炭化させるのとは別に、屋敷や土地の邪気を祓う意味合いもあった。しかしいつの間にかその意味は失われてしまった。因みに、印伝の類に(ふすべ)がある。これも鹿皮を煙でいぶして作るのであるが(ふすべ)も(くすべ)も昔は同じ発音であったと考えられる。くすべによって出来たものがふすべなのである。人の魂も腐らぬように線香でくすべられるのか。
目通り3メートル弱のナギの木が磯部町にある。巨木・大木の類は樹種にもよるが、杉や松、或いは椎や欅とは異なり、これだけのサイズのナギの木は、伊勢・志摩地方では極めて珍しい。その幹や樹全体から感じる質感は、他の樹種から感じるものとは別のものがある。更に太いナギの木は熊野速玉大社にあるもので、これは目通り6メートル余の正にナギの巨木である。葉の付け方や葉そのものの特殊性から、男女の強い契りをあらわす神木として寺社の境内に植えられているが、不味いのかナギだけは鹿も食べようとはしない。
道路沿いにある駐車場に車を止めて鳥居をくぐると、瞬間・沈黙の世界が広がる。月読宮への参道である。ゆるやかな曲線の参道を行くと、ほぼ正面に御手洗があり、その右手奥に小さな社(葭原神社)がある。正に小さな小さな神社なのであるが、この社に向かって右手に、今度は大きな大きな楠の大木がある。傾斜地にあり測ったわけではないが、およそ6メートル余あるだろうか。鳥居の近くにある楠も大木なのであるが、小さな社と巨木との対比が面白い。賽銭箱すら置かれていない、何でと思わせる風変わりな神社なのである。
桜の名所・吉野の山中に、木造の建物では東大寺の大仏殿に次いで国内では2番目に大きな建築物である(国軸山・金峯山寺)がある。普通は山の中腹辺りに建てられるものが多いが、このお寺は山の上にある。本堂の柱は、吉野の山中から伐り出した様々な種類の大木を、丸材や角材にカットせずに、そのままの姿で使われている。修験者の役行者によって開かれたと言われているが、奈良の(がっしり・どっしり)したお寺の建築物の中でも、その質感や重量感は際立っている。祀られている秘仏は、一度観たらボケても忘れないだろう。
北山村・七色ダム・池原ダム・坂本ダム等を巡って車を走らせた。長閑な山村風景の広がりが日ごろの煩わしさを忘れさせてくれる。夕刻の集落にさしかかったとき、所々の家の煙突から煙が出ているのを観て、少なからず感動した。その煙が五右衛門風呂を沸かすためのものであることは瞬間に分かった。ただ、帰り道に七色ダム沿いの道を選んだのはまずかった。それというのも、道路が九十九折れどころの騒ぎではないのだ。ハンドルを左右に切り続け、直線らしい所がほとんどない。翌朝目覚めたら、ベッドから落ちていた。
ふと思い立って鳥羽からフェリーに乗った。さすがに若いころとは違って、この歳になると気まぐれというよりは、半ボケ者の車による徘徊ではないのかと、自嘲気味に自らに問いかけてみる。伊良湖水道を渡り、港から暫く車を走らせると雰囲気は一変する。志摩の細々と切り刻んだような風景から、ゆったりとした曲線の風景へと変わり、長い砂浜が右手前方へと続く。風さえ無ければ、気候的には志摩半島よりも暖かいのではないかと思える。ついでのこととて、浜名湖まで走ってウナギを注文した。何と大きくて立派な一品。
どちらかと言えば、若いころから食い意地が張っている方である。浜松のかば焼きの大きさと脂ののりに気を良くしたものの、自分の住んでいる町のウナギ屋で食うかば焼きとのサイズの違いに、いささかガックリした次第である。同じ養殖ウナギでありながら、これほどまで違うものかと、妙な具合に感心させられた。で、つい先日、仕入れで東京へ行った際に、不忍池近くにあるウナギ屋へ立ち寄った。以前にも幾度か行ったことのある老舗で、関西との違いはあるが、私は精錬された東京の鰻も好きだ。ただ最近のお値段には。
ウナギについてもう一つ。盛岡へわんこソバを食べに行って、何の気の迷いかウナギ屋へ入ってしまった。昼時ということもあって、店内はほぼ満席常態であった。しばらく待っていると鰻重が運ばれてきた。ウナギはのらりくらりと食ったら味気ない。一生懸命に食うのが良い。が、蓋を取ってビックリ。かば焼きの上に山椒が既に振り掛けられているではないか。しかも少量では無く大量に降り掛けられていたのだ。ウムッ、なんてことだ。嫌いではないが、山椒は要らない派なのだ。信じる神が違うように、食い方も違うのだ。
サニー道路を出て宮川大橋の手前の信号を右折すると、地名は(円座)になるのだろうか、旧道脇の神社の境内に楠の大木がある。多気にある楠神社の御神体木と比較して、どうだろうかと言う程のサイズである。此処も樹の下は小川になっていて、水には恵まれている環境にあるが、道路側の土が無く、根は十分に張っているとはいえ、視覚的にはいくらか危うい感じがする。本来楠は水の豊かな土地を好むのか、楠の大木は水辺に近いところにあるものが多い。人はその内なる世界が貧しい所で育つと、眼差しは卑しく闇の根は太い。
明日香村へ行った帰り道、御杖村の道の駅へ立ち寄った。山中にある村の道の駅だから、たいしたことは無いだろうと思っていたが、なかなか立派な建物で、客の賑わいもあった。夕食を食べた後、伊勢本街道について働いている店のスタッフに尋ねたら、その道はやめておいた方がいいでしょうということであった。しかし道幅もあるし、大丈夫だろうと入ったのが間違いであった。直ぐに道は狭くなり、やがて日も暮れて真っ暗な杉林の中、車のライトが林の中へ消えてしまう感じで道が見えない。1時間余り、名ばかりの道に苦戦。
壺坂寺から天川村へ車を走らせた。此処の神社の境内には、空から落ちてきたと言われる石が3個、直ぐ近くの川に1個あるという。川の中のものは別にして、社の前に2個と裏に1個ある内の、前にある2個のものを暫くの間見比べてみた。結構大きな石で、内心本当に空から落ちてきたのかと思ったが、(かもしれない)ということにしておくことにした。それと言うのも、この村は山の中、正に山の中も中と言った所なのである。牧水の(幾山河越えざりゆかば云々)の幾山河ではなく、山の中の山、山の奥のさらなる奥の川なのである。
(男子三日会わざれば、、、)というが、これは相手が努力していることに対して、心してかかれというようなことなのであろう。しかし、これが自分のこととなると、梟の宵企みとかいうやつで、今日ではなく明日にしようということになり、なかなか努力しにくいものである。結局は(お前も変わらんのう)の一言で片づけられてしまうのがおちである。しかし、願わくば未知への半歩を、常に踏み出していたいものである。(エクスカーション)という言葉があるが、自らの瞬きの、その一瞬の中にも魂の小さな旅をするべきではないだろうか。
志摩市・坂崎地区の寺の境内に、見事な楠の大木がある。目通り5メートル程であろうか。勾配のきつい石段を登りきって直ぐ右手にある。地形や風向きにもよるだろうが、伊勢湾台風のような強風にも耐え、さほど大きな損傷痕も無く、ほぼ無傷の状態である。因みにこの寺には公孫樹(3メートル)もあり、2本とも志摩市の有形文化財に指定されている。どういう基準で市の有形文化財に指定するのか知らないが、成長の早い楠や公孫樹と比べ、成長の遅いナギは、志摩市最大で3メートルに満たないけれど、その1本(玉楽庵)をと思う。
適当に異なったタイミングで、200個のメトロノームを作動させても、暫くすると少しずつ動きが重なってきて、やがてすべてのメトロノームの動きが重なるという。メトロノームに意志があるとは思えないが、不思議な現象である。しかし少し考えてみれば、人間と言うべきか民衆と言うべきかはともかくとして、人も時間や時代の流れの中で、個性や個人の自由だなどと言いながら、一つひとつの時代を振り返ってみると、押し並べて同じような生き方をしているものである。全体を構成するものは砕かれた岩の欠片なのだ。
私にはお気に入りの神社というよりは、お気に入りの参道がある。あえてどこの神社とは書かないが、駐車場に車を止め、社殿までゆっくり歩いて10分ほどの参道である。鳥居をくぐって、黙って深く一礼(二礼二拍手一礼ではない)してから、賽銭箱へ。これも願い事にたいしての賽銭ではない。参道を往復する時の、「私」だけで居られること、私だけの沈黙の時間を生きられることへのお礼なのである。首筋に汗が伝う暑い夏の盛り、蝉の鳴き声を聞きながら、同じような感覚が以前にもあったような気がして立ち止まる。蝉の声。
タジン鍋なるものを頂いてから、彼是季節のものを取り入れながら楽しんでいる。何分にも形が、日本人のイメージする鍋という概念から外れているのだ。この鍋を見て、これで料理をするなどとは考えにくい。逆さにして媚薬でも作る時の容器ではないかと思えなくもない。ところがいったん使いだすと、なかなかすぐれものなのである。旬のもので、素材が良ければ野菜であれ魚であれ、何も悩むことは無い。微妙な味付けなど何のそのといった感じで使い勝手がいい。やれば出来ると嘯いている女の舌も、この鍋で煮てみるか。
読みにくいが(いざわのみや)なのである。地元では(いぞうぐう)と言っている古い宮で、伊勢神宮の別宮であり、格式のある宮である。この境内に楠の大木が、撮影可能なもので11本程ある。根本だけが異常なまでに太い、異形のもの1本を除けば、最大で5メートル前後だろうか。杉の太いものも存在するが、森全体は楠の大木によって構成されていると言ってもよいくらい楠が多い。ただ歴史的な古さのわりには、7メートルを超える感動的なまでの巨木は無い。7メートルを超えるには、近くに水の流れのような条件が必要か。
今に始まったことではないのだが、観光地ばかりか山へ行っても海へ行っても、やたらカメラを手にしている人が目につく。で、写真展の案内状が多いことにはいささか閉口する。別に写真が嫌いというわけではないし、写真展がいけないと言うつもりもないのだが、問題はその内容なのである。時間の都合を図って、何故に池の鯉や子供、ほとんど文字の読めなくなったホーローの看板や、錆びて朽ち果てようとしている自転車等の写真展をわざわざ。「私」の生の旅路の、ほんの一瞬でもいいから、そのたった一枚が観たいのだが。
志摩市にオオシマ桜の古木がある。樹齢350年とあるが、はたして実際のところはどうだろうか。水田の直ぐ傍に在り、環境的には決して悪くはない状態にある。成長の遅い樹種はともかくとして、桜並木のものなどは、60年前後でひと抱え程になる。他県の桜も数多く観てきた感覚で言えば、せいぜい200年程度ではないだろうか。別段ケチをつける気はないが、生えている場所の条件も良く、今後もきちんと整備して見守っていけば、立派な桜の銘木へと成長していく。きっと200年未来の、多くの誰かが感動するだろう。
以前、東北自動車道を車で走った時、真っ赤に色づいたナナカマドの実が目に留まった。様々な地域で、その土地にあった街路樹が植えられていて、私は旅の一つの楽しみにしている。仙台のケヤキ並木、日比谷公園のイチョウ並木など、訳もなく人を歩かせる魅力がある。多くの場合、各々の市町村は独自の木や花を指定して、街路樹としたり公園に植えたりするのが普通である。阿児町はヤマモモの木を指定して街路樹としたが、実が歩道や道路に落ちて汚くなるから、トラに枝を切られ、概ね一年中鰯の干物のような状態にある。
絵画展・書道展・写真展等々。何であれ、その会場の受付について一言。多くの場合、会場の入口あたりにテーブルが置かれ、その上に来場者に記帳してもらうためのノートとペンが置かれている。別に問題はないのだが、座っている担当者が問題なのである。他に来場者が無いのに、何の説明もなく、ただ座っているだけの受付というのは如何なものであろうか。自分の個展なら当然のことだが、グループ展の場合など、殊更その多くのことを理解して、当事者に代わりに説明等をする必要がある。会期中不在などもってのほか。
志摩の多くの在所に、奇妙な方言がある。当然のことながら、それぞれの在所によって違いはあるのだが、問題はその在所の一部の者によってしか使われないということである。在所に生まれ育った者だけで使われ、他所の土地から来た者には理解できないというより、話の仲間に入れてもらえないのである。一度だけひょんなことで耳にしたことがあるが、まったく理解できない。奇妙というよりは、おぞましいと言った方がいいかもしれない。他の在所に住む友人に尋ねたら、在所では、彼も他所者扱いされていて分からないという。
方言というよりは内緒言葉と言った方がいいのかもしれない。万が一、他所者に聞かれたとしても分からないように、独自の会話を保ってきたのである。いわゆる、方言には表に出てくる外的な方言と、決して表には出てこない内的な方言とがあるのである。普段私たちは、事もなげに言葉を(方言)口にしているが、それぞれの集落に潜み、代々息ついてきたおどろおどろした闇の力が、方言というあやふやでいい加減な、かりそめの言葉を表に押し出してきたのである。結果的に、視覚や感覚的に言い表されたものが表の方言なのだ。
熊野灘沿岸、或いはその山間にある集落の方言は、集落独自の言葉であり、広く全体に共通する方言としての言葉はさほど多くはない。現代というこの時代にあっては、様々な手段、とりわけテレビの影響が大きいといえるが、ある程度日常の言葉は整理されてきた。ただ悪く言えば、画一化されてきたために、言葉の質感が失われてしまったことも確かである。輪転機によって高速で文字や絵が印刷されるように、対話としての言葉も、高速で口から吐き出され、さして意味を持たない音の連続として交差し、生命力を失っていく。
方言はそれぞれの地域、或いは集落の精神的な意味合いにおけるエネルギーの根幹をなすものである。夫婦に二人だけの約束事や秘め事があるように、その連鎖は家族・親戚へと広がり、内緒の奇妙な言葉によって、その結束力を濃い血縁の土地へと高めていくのである。そして、このことが外部から来た者に対する差別意識、いわゆる余所者扱いなのである。しかし、幾世代をも重ねてきた沈黙の差別意識が、外部からの冷ややかな侮蔑の眼差しの中で、自分たちが差別されていることに、未だ気付いていないという空しさにある。
方言というものは、たとえてみるならば(裸の私)のようなものではないだろうか。幼いうちの私は、何の躊躇いも羞恥心もなくそのままで問題はないのだが、成長するに従って徐々に隠し始めるのである。しかし生まれや育ちは、そう容易く隠せるものではない。キラキラした衣服を装い、目や鼻や口に、原型が分からなくなるまで多様な工事を重ね、更にペインティングをして、都会を表現するのであるが、いつの間にか、都会でもなければ田舎でもない、異形の妖怪へと化身していくのである。百鬼市中を闊歩するのが現代なのだ。
(目は口ほどに物を言い)という言葉があるように、眼差しは多くのことを語りかけるが、それ以上に当事者の生まれや育ちを語る。以前、さる老舗の社長が、不実な製造過程をテレビの謝罪会見で指摘されたときに見せた眼差しを、私は今でも忘れることが出来ない。消費者を欺いて多くの利益を上げた卑劣な行為より、その時に見せた眼差しの卑しさこそは、生まれ持ったものであり、長い時間をかけてその地域に根付いた貧しさゆえの哀れなのかもしれない。人生は一時。その一瞬の中に、隠しがたい生の本質が姿を現すのである。
最近、2級河川くらいのものは、下流域の大半はセメントで両岸は固められて、大型の側溝のようになってしまった。時代によって川が果たしてきた役割は異なるものの、一昔前まで川は炊事・洗濯、魚釣り・シジミ掘り・水遊び、あげくの果てはゴミ放り場であった。現代のように農薬や化学物質等の垂れ流しとは異なり、生の連鎖が保たれていた時代が長く続いてきたのである。砂防工事などで整備され、さしたる水害も起こらないような川がセメントの衣をまとい、昔の表情が消えるとともに、子供達は故郷へ帰らなくなった。
電気の自由化ということもあって、山を削り・畑を均し・休耕田を埋め、わずかでも平地があれば太陽光発電のパネルが設置されている。自然の景観が売りの志摩半島の観光にあって、此処も彼処もいたるところにパネルが設置され、ピカッと輝いているのを眼にするにつけ、景観に対する美意識の無さに愕然とする。風力発電のための大型プロペラによる低周波の健康問題が取りざたされているように、太陽光パネルも景観を損ねるばかりか、いずれ健康被害の問題を生じさせるに違いない。破壊の使者は天空より舞い降りてくる。
ずいぶんと古い話になるが、世界遺産に指定される前の熊野古道の一部を歩いたことがある。その当時は、まだ熊野古道という名称は一般的になっていない頃で、案内をしてくれた土地の人も、(昔の山道)ということで道案内をしてくれた。世界遺産になってからの道はまだ歩いていないが、その当時の道は所々崩れていたり、夏草が覆い茂っていたりして大変な所もあったが、ことのほか植林されている杉やヒノキ林の中の道は保存状態が良かったように記憶している。ただ安易に、独りハイキング気分で漫ろ歩くような路ではない。
最近は雑貨店が無くなったせいもあって、下駄を売っているお店を見かけなくなった。新聞の折り込みチラシなどで売り出しているのは、下駄なのかサンダルなのか分からないような代物で、およそ下駄と言えるような代物ではない。とりわけ男ものになると都会の履物専門店へ行かないといけない。ただあったとしても値段が途方もなく立派なのである。30年くらい前の、田舎の雑貨店なら700-800円位であったものが、5000-6000円なのである。これが呉服屋でとなると10000円。財布の歯が欠けてしまう。
当節、大型の安売り店が全国展開しているせいもあって、結構質のいい物が手ごろな価格で販売されている。それが為にということばかりではないのだろうが、履物・ジーンズ・帽子・ハイキング用の上着、ズボン・リュック等々、なんとなく様にはなっているのだが、結局のところ、押し並べてみんな同じ格好になってしまっているのである。知らず知らずのうちに画一化の波にのみ込まれ、私ではない私が一応は納得して気取っている。思えば数十年前に、私たちの先人も同じ格好をして、死と混沌だけの戦場へと出向いたのである。
昔はほとんど木製であったが、最近はアルミ製で、引き戸のものばかりではなく、シャッター形式のものも見かけるようになってきた。ところで、この雨戸というものは結構厄介なものなのである。この部屋はあまり使わないからといって、雨戸を閉めたままにしておくと、不思議なことに、家族が病を得るのである。昔から(怨霊は庇を伝ってやって来る)と言われているが、明るい部屋の中は怨霊には見えないが、年がら年中暗い部屋はよく見えるのだという。住人の扉を閉ざし鬱々として在る様をみて、怨霊は憑物と化すのである。
健康のためにということで、散歩が現代という時代の流行りのようになっている。しかも健康に関する本によると、いくらか早足で胸を張って、ある一定の時間歩くのが健康に良いという。(そうか、なるほど)と頷いてはみるものの、生来の天の邪鬼である私は、そう簡単には受け入れない。確かに健康のためにはそうなのかもしれないが、何とも風情の欠片すら感じさせない行為ではないか。穿った見方をすれば、それは肉体の健康のために、精神的な不健康を誘発させるための行為でしかない。漫ろ、という言葉にある魂の流離い。
そぞろ歩きと言うのか、すずろ歩きと言うのかは個々の好みの問題として、最近の日本人はゆらり・ぶらりと歩くのを忘れてしまった感がある。軍隊の行進ほどではないにしろ、散歩の(散)が当てはまらない歩き方なのである。別に他人様の歩き方にケチをつけるつもりはないのだが、通りを観ていると、如何せんせわしさを感じるのは、私自身が時代の中で、すでに過去の人になり果ててしまったからだろうか。つま先の尖った皮靴・ポマードで固めた頭・袖のカフスボタン。昭和の形は、既に骨董屋の軒先で雨曝ていどになり果てたか。
祭りがあると言うので、旧南島町のさる地区へ祭りを観に行ってきた。街おこし・地域活性化の類の祭りで、一生懸命に盛り上げようとしているのは伝わってきたが、ひとつ何かが足りないような気がした。広場にステージを設け、テントを張って、地場産の農産物や海産物、加工品の販売。別段悪くはないのだが、この地域でしか買えないといった物が何もなく、値段もスーパーで買うのと何ら変わらない。安全面の配慮もあってのことだとは思うが、他所からも集客を、と考えているのなら、せめて雰囲気のある会場を期待する。
祭りの帰路、道路沿いにある不動院に立ち寄った。運転をしながら、前方に見えてきた2本の杉の木が目に飛び込んできたからである。車が通り抜けられるようになっている境内の隅に車を止め、暫く界隈を散策してみた。杉は夫婦杉のように並び立ち、良い雰囲気を醸し出していたが、感動的という程の大木ではなかった。むしろ直ぐ近くにある楠のほうが、太さとしては立派なもので、4,5メートル程だろうか。太さの割には幹の長さが無く、台風で折れたのか枝ぶりはよくない。ただ良く整備され、爽やかな風の中にあった。
最近やたらテレビでの料理番組が多いせいか、出演者の箸の扱いが画面によく映し出される。箸を持つ手が左右に関係なく、極めて橋の扱いの上手な人がいる半面、何とも話にもならないような箸の持ち方をする人がいる。と言うよりは、出演者のほとんどが無作法な箸の扱い方なのである。別に飯が食えればいいのであって、他人に箸を使う所作まで難癖をつけられるいわれはない、と言われればそれまでの話なのであるが、日本食が世界遺産に認められた今、プロのなす見事な技に、見事な箸さばきで応えるべきではなかろうか。
読みは(つといり)。昔伊勢の宇治界隈で、陰暦の7月16日に、他人の家へ勝手に上がり込んで、家の中の様子や家族の顔等を観ることが出来る風習があった。どういう意味合いがあったのかは分からないものの、ある程度の想像はできる。往時の川柳に(衝突入りや知る人に逢う拍子抜け)というのがある。界隈では誰もが一目置く金持ち。さぞや此処の女房は、女神と見紛うばかりの美形かと思っていたら、時々通りで見かける化け猫顔の婆さんではないか、と言ったとこるか。羨むな、世に押し並べて著しいまでに完璧なものはない。
やれば出来る。子供なら可能性は大きいだろうが、大人になってから何かに挑んでいく場合、何を目指すかにもよるが、まず出来ないのが普通である。様々な会話の機会に、(やれば出来るさ)のセリフが飛び出してくるのを耳にする。しかしそう言う人の日常を振り返って思いを巡らせてみると、案外何もしていないことに気付く。恐らく何もしていないのではなく、何かを手掛けてみたものの、その多くのものを途中で投げ出してしまったのであろう。才能のありそうな人でさえ苦戦する。成し遂げることなく、空しいだけの言葉。
若いころ初めて買ったLPレコードが、富田勲のシンセサイザーによる(惑星)であった。その富田勲氏が逝った。シンセサイザー音楽の先駆者であったばかりではなく、氏が電子音で紡ぎだす世界観の広さには、ただただ驚くばかりのものがあった。彼の日買いに行ったのは別の曲で、その頃は未だ(惑星も富田勲)も知らなかったのだが、何気なく手にして、ふと買ってしまっていた。もしその時の気まぐれが無かったら、私の音楽に対する感覚は、今とは異なったものになっていた筈だ。人との出会いがそうであるように、何とも不思議。
古びた田舎の雑貨店、崩れかかった廃屋、苔むした石垣。既に雑草や雑木におおわれ、元に戻ってしまった畑や田圃。ひとたび人の手を離れると、一切のものはもとの姿へ戻ってしまう。自然の勝利とか人間の敗北と言うようなことではなく、時の流れによる調和を保つための呼吸であると考えた方がいい。フランスの意地悪な哲学者曰く(女は若くても美人でなければ意味が無いし、美人でも若くなければ意味が無い)と。そのど真ん中にある時期こそが全てなのである。何かを廃墟になぞらえて鑑賞するというのは冒涜なのだろうか。
(命短し恋せよ乙女……)と歌うが、どんなものにも〈旬〉というものがある。この旬が過ぎたものは、無理をすれば食えなくもないが、ネギ坊主が出たネギと一緒で、煮炊きして食っても死にはしないだろうが、食そのものからは果てしなく遠い。今が盛り。そのただ中にある時は、今という時が永遠に続くものであると錯覚している。過ぎ去って振り返れば無常なるか、一切は刹那の夢の戯言にすぎないのである。(……紅き唇褪せぬ間に)と結ぶように、唇も歯茎も色褪せ、髪は白く乳房は垂れ下がり、目はかすみ足元は危うい。急げ。
私がまだ子供であった頃、今とは異なって、それほど多くの種類の洗濯石鹸と言うよりは、質のいい洗剤が無かった。ヤマモモを食べては果汁でシャツを汚し、イカ釣りでは墨を顔やシャツに吐かれ、母親に洗濯をしてもらったが、なかなか綺麗に落ちないので、よく叱られたことを記憶している。以前は英虞湾で秋ともなれば、結構大きなサイズのコウイカやアオリイカがたくさん釣れた。身が厚く、刺身にしても一夜干しのものを味噌焼きにしても美味いのだが、遠い日の印象としては、薄く墨痕の残ったシャツの記憶なのだ。
(志摩の地学ガイド)なる本を、パソコン教室の先生を介していただいた。自らが住む志摩地域については、漠然と見聞きし、漠然と知っていたわけであるが、この小冊子は簡潔に要約されていて、なるほどと頷いた次第である。私ばかりではなく、如何に多くの人が、直ぐ足元のことについて何も知らないままで居ることかと、独り合点してみたものの、直ぐ近くがそんな風になっているのだと分かった時、同じいつも観る風景でも、その見方は今までとは違ってくるだろうと思う。ただそれだけのことなのだが、そのことが有難い。
ブーメランはオーストラリアの先住民が猟に使う道具である。ライフルのある今の時代にあって、現在も使われているのかどうか知らないけれど、スポーツとして使用され、様々な所で大会が開かれているようである。このブーメランなるものは、目標に命中しないと、曲げた場所の方へ戻ってくるというすぐれ物である。人の生の長い旅の途上にあって、様々な過去の出来事が追憶として去来する。さながら目標には命中しなかったブーメランの如くして。良い追憶の無い人は悲しいが、追憶の中にしか生きられない人はもっと悲しい。
サニーロードを出て宮川に架かる橋を渡って左折したところに楠の大木がある。驚くほどの巨木ではないが、杉林の中に祀られている祠の近くにあり、環境としては申し分ない。樹のサイズとしては語るほどではないものの、その立ち姿が絶品なのである。水屋神社境内にある楠に比べれば、ふた回り以上劣るだろうか。が、その気品すら感じさせる立ち姿は一見の価値がある。道路脇にあり、駐車場も乗用車が3台ほど止められる。落ち着いたたたずまいの中で、不思議なほど神聖なものを感じさせる。瞑想する御神体木への途上か。
R42からJR線の踏み切りを渡って直ぐのところに、北畠ゆかりの楠(御神体木)の大木がある。胴回り7,5メートル、樹そのものが神様として祀られているのである。道路と小川の間にあり,いささか狭苦しい感じがしないでもないが、周囲はよく整備されている。車を運転しながらでは、線路の向こう側に、これほどの大木があるとは想像できない。大木を後世に残していくには、近くに住む人々の保存への努力と忍耐とが必要であるものの、近年いとも容易く伐採されているのを見かける。あるべきものが見られなくなる空しさ。
志摩半島の最先端に位置するのが御座である。古くから爪切り不動や潮仏で知られているが、鳥羽・志摩に現存する松の木では最大のものがあった。太さもさることながら、突然変異なのか太い枝の一つに、他の枝とは異なったサイズの葉をつけるものがあった。今は亡き植木屋の古老が、(あの松の枝の種を採って、何とか苗を育ててみたいものだ)と言っていたが、電線や人家への影響もあり、先年切り倒してしまったのだという。短い人の一生はともかくとして、300年以上の歳月を越えてきたであろう樹を、正にいとも容易く。
山高きゆえに尊からず、のたとえがあるように、樹も太きがゆえに気品があるのではない。立ち姿と、何処にあるかということが大切なのである。妙にねじれていたり、ひん曲がっていたり、或いは異形のものであってはならない。そして何処に、どのような状態であるかということが大切なのである。長い歳月の風雪に耐え、ねじれているものや瘤のような突起ができているもの、根幹部が朽ちて洞になっているようなものが多い。そんな中、稀にではあるが、周囲の木々を従えるかのようにして、凛として威光を放つものがある。
今は昔のように薪として木を切らなくなったせいもあって、集落に隣接する山や雑木林の面積は、造成工事で狭まったが、木々は成長して山は深くなったように感じられる。そんな中でも成長の早い楠の木の逞しさには目を見張るものがある.松の大木などは松くい虫や台風などで枯れたり倒れたりして切られてしまったが、楠の木や椎の木は残り、しかも周囲2,5メートルから3,5メートルの後継木が順調に育っている。ただ私有地にあるものが多く、切られてしまう恐れもある。大木になる手前の太さが危険なサイズなのだ。
(ちゃちゃもちゃ)も同じ言葉なのであるが、意味は滅茶苦茶・ぐちゃぐちゃにするというようなこと意味の言葉であるが、志摩の集落の中には、こういった言葉を巧く使いこなすところがある。ちょちょらちょっと(ちょっとやそっと)と同じで、意味を強めるための言葉なのであるが、はてさていつの時代から使われてきたのかは定かではないものの、よくもまあ舌を噛むこともなく、奇妙奇天烈な言葉を重ねて、言葉を相まみえてきたものだと感心する次第なのである。ちなみに広辞苑には、ちょちょら(口先で上手を言うこと)とある。
(未だ其処に在らず)というような意味なのだが、確かにひとは其処に在るように思えるものの、多くの場合、架空の存在として在るのであって、その真の姿は未だ其処には到達していないのである。酔って人の心、其処に在らず。恋をして人の心、其処に在らず。死を前にして人の心、其処に在らず。人は自らの真の姿に気付くことなく、この地上を去っていくのだ。かく言う私も、その実、自らの真の姿を知らないのだ。もし私が戦乱のただ中にあったとして、手にしたライフル銃の引き金を、決して引かない人間であるだろうか。
田舎にあって、使われている言葉は方言であると言ってしまえば、その多くは方言なのである。面白いことに、隣接する阿児町鵜方地区と磯部町穴川地区の両方で使われている言葉で、貴方を表す言葉に(こんた)と(ほんた)がある。文字で表すと言葉の違いがあるけれど、昔の栄養不足の時代、大人も子供も青バナを垂らし、老人は歯が抜けたままで話をしたわけなのだが、その発音は(こんた)も(ほんた)も同じであったはずだ。他の地区での貴方を表す言葉(あじゃ)も(あざ)も同じであり、今もって古老たちの発音に、その差異はない。
あばばい・という言葉がある。眩しいという意味の言葉なのであるが、志摩半島ばかりではなく、広く熊野灘沿岸の地域から浜松界隈に至るまで使われているという。一説に、平安時代から使われていた(ばばい)が、現在も大分県で使われているとか。おそらく千石船に乗って熊野灘へやって来るまでの間に、感嘆詞の(あ)が(ばばい)の頭にくっついて(あばばい)になったのであろう。さほど特殊な言葉でもないらしく、広辞苑にも(ばばい)が(眩しい)とある。(あばば)・(あばっ)或いは(あばばよ)など、微妙に変化したものが方言なのである。
志摩市の祭りの一つに(ええじゃんか祭り)というのがある。昔からある祭りではなく、近年つくられた祭りである。一昔前までは志摩市でも、阿児町鵜方地区で盛んに使われていた言葉で、良いではないかというような意味合いの言葉なのである。ただ(ええじゃんか)と言うことはなく、(ええじゃんこ)・(ええじゃんかれ)が普通で、言葉を重ね(ええじゃんこ、ええじゃんこ)・(ええじゃんかれ、ええじゃんかれ)と使うことが多かった。もともと(そうじゃがれ・ああじゃれ・こうじゃれ・なんじゃれ)等々、じゃの発音の多い地区であった。
漢字でどのように表記するのかはわからないが、志摩半島(英虞湾)には(ないざ)と言われるものがある。昔、まだ船が木船であったころ、定期的に船を陸にあげて、貝や藻を削り落したり、船底を焼いてフナクイムシに対処した。まだセメントが普及していなかった頃、その海からの傾斜地に石を敷き詰めたものが(ないざ)なのである。どこの家の養殖場にも必ず設けられていて、子供達は其処で初めて海水に足を触れたのである。内湾の仕事に不可欠であったものであるが、これも英虞湾の風景を成す一つの文化遺産だと言えなくもない。
昔から(講釈師、見てきたような嘘を言い)というのがある。確かにそういった関係の本や、川柳の本を読むと、よくもまあ、そんなことを考えるものだという類のことが書かれている。しかし、よくよく考えてみれば、何処に居るのか分からないような神様に向かって、必死になって願い事をしている様を見れば、無神論者には滑稽この上ない茶番としか思えないのである。しかも多くの場合、その姿が人間・それも美人であると勝手に想像しているのである。もしその姿が異形のものであったとしたらどうする。例えば百鬼夜行の親分。
確かに、考えるのは自由であるが、文章で表すとなると罪深い。何処かのお寺で百鬼夜行の図を見せてもらったことがある。想像力によるものか、それとも誰かが本当に出会って描いたのか。いずれにせよ人間がそうであるように、神もまた多面性を持っているものだと考えたほうがいい。そのほうが人間は生きていきやすいのである。それ故、想像力を逞しくしてイメージしてみることだ。便秘なのか、いま便器を跨いで美女が顔をしかめている。その顔を見た神様が、供物の餅を喉に詰まらせ、目を白黒させてえずいているのを。
前々から神社の前にある鳥居なるものが気になって仕方ない。何故あのような形をしているのか、しかも神社によっては10や20どころか数百に及ぶ神社がある。願い事をしたことが叶うとお礼として寄進するのだという。その数が多ければ多いほど、願いが叶えられたということなのだが、だから俺も私もということになり、鳥居が次々に寄進され数を増やしていく。が、田舎の稲荷神社の鳥居は一つだけのものが多い。願いが叶えられないのだろうか、願い事をする人がいないのか、それとも田舎の御狐様は力不足か。頑張れ。
鳥羽・船津の神社(八幡神社)に、目通り・約5メートル、楠の大木がある。非常にどっしりとした立ち姿で、存在感がある。この八幡神社の境内は、極めてコンパクトサイズなのだが、他にも槙や欅等の大木が十数本あり、全体としては類まれなほどの安堵感を抱かせる神社である。神社によっては、やたら境内だけが広いだけで、空蝉のごとく、およそ此処の社殿に神様は御在宅ではないな、と思えるものが多い中、この八幡神社に神様は(いる)と思わせる静謐な沈黙の奥行きがある。それとも神社を守ってきた人々の心の顕れなのか。
最近、テレビを観ていると、幾人かの若手芸人が、その言葉以外の表現は無いのかと言いたくなるくらい、ヤバイを連発しているのを耳にする。いささかげんなりしているのは私ばかりではないだろうと思うのだが。ただ、このことは日本人独特の言語感覚によるものなのかもしれない。何かを口にして、美味くてもヤバイ・ヤバイ、辛くてもヤバイ・ヤバイ、不味くてもヤバイ・ヤバイ。そればかりか美人とすれ違ってヤバイ・ヤバイ、福引で当たってヤバイ・ヤバイ、下手な絵や写真を観てヤバイ・ヤバイ。或いは私の頭も既に。
八幡神社の境内に榊の木であったと記憶するが、「連理の枝」ならぬ連理の幹を成すものがある。二本の榊の木が妙な具合に、一部分合体しているのである。妙な具合にと言ったが、極めてエロチックに合体しているのである。正に(百聞は一見に如かず)の例え通りなのである。実際に行って見たら、吹き出すこと必定の状態なのである。しかし、人間のなせる技というのも、もし神様が鼻糞を穿りながら覗いていたら、思わず指先を鼻の奥まで突っ込んでしまい、鼻血を噴出させるであろうと思うが。いや、案外神様の退屈しのぎか。
ジュエリー展を開催しても、美術展を開催しても、何かしら一言言いたくてやって来るアンポンタンがいる。いろいろ話し掛けてくるが、適当になまくら返事をして済ませて、ほとんど聞いていない。私の精神世界のいい加減な部分なのだが、自分ではとても有難い才能であると神様に感謝している。何しろこの歳になるまで、とことん悩んだことがない。これは母親の性格を多少受け継いでいるような気がする。生前一度だけ聞いただけであるが(どうしょうもないことは何ともならない。そう思った時、まだ生きられると感じた)と。
池田川に架かる上池田橋の近くにある竹藪の中に、一本の杉の大木があったことを記憶している。多分現在も伐られずに残っていると思うが、何分40年も前の記憶である。密集して生えている竹藪の中のことであり、間近で確認したわけではないが、目通り3メートル以上はあっただろうか。現存していれば、志摩市内における個人の所有地内にある杉の木では、おそらく最大のものであろうと思う。あまり多くの人に知られることもなく、密やかにあるものは、そっとそのままにしておいた方が良いのかもしれない。或いは檜?
我が家の隣にある竹藪に中に、椎と楠の大木がある。驚嘆するほどの太さではないが、その茂っている様を観させてもらうようになってから、久しい時が流れていった。我が家の土手から6-7メートル下がったところにある。距離にして10-20メートル程のところにあり、正にお隣さんなのである。直接測ったことは無いけれども、椎が3メートル・楠が3,20メートル位のものであろうか。この谷や傾斜地には、他にもよく似たサイズの楠が3本あり(百年未来が楽しみにできるエリアである)と、呑気な風狂人の独りごと。
昔、田圃や畑仕事に行って、其処で昼飯が食べられるように、3坪ほどの平地に簡単な煮炊きが出来るように竈を拵えたところが昼場である。夏場、其処に木陰が出来て寛げるように植えられたもの、あるいは伐らずに残されたものが昼場松なのである。別段、松だと決められていたわけではなく、どちらかと言えば成長が早く、木陰のできやすいヤマモモが多かったように記憶する。ところがこのヤマモモの木は枝が裂けやすく、結構太い枝がいとも簡単に裂ける。で、実を採りに登って枝を掴んだまま、田圃へ落下という次第。
現在、英虞湾では一個のアサリも採れないのである。外海に近い海域はともかくとして、湾の奥部では完全に死滅してしまった。しかも悪性のプランクトンのせいで、稚貝を放流しても大きく育たないのである。この地域のアサリ掘りは、一本爪の草引き道具(チョンチョンという名称・志摩のある地域では、女性の陰部を指していうこともある)を使うのである。昔、この道具を使ってアサリを掘る名人の古老がいた。古老曰く(潮目を伝っていけばいいんだ)とかで、その掘った跡は、10センチ程の幅で一本の線となって続いていた。
昔から、英虞湾のさる島の一つに大蛇が住んでいるという。蛇のことだから、各島々を行き来しているのだとは思うが、この話をアサリ掘りの名人である古老から聞いたと母親に話したところ、母親も出くわしたことがあると話してくれた。しかもその大蛇と話をしたということであった。どのような話をしたのかは覚えていないが、(あまり人目に触れるところへ出てくると悪さをされるで、早く帰れ)と言ったら、雑木林の中へ消えていったという。因みに、その大蛇のサイズは、太い孟宗竹の太さくらいはあったということである。
一時、社会現象にまで発展していったものにツチノコがある。今も懸賞金まで懸けて探している町があるというが、未だ捕獲されたというニュースが無いところをみると、雲隠れしたままなのであろう。このツチノコの話がテレビで取り沙汰されている時、さして驚く風でもない母親に向かって(そんな飛びかかって来るような蛇がいたら、山道でおちおち立ち小便もできんな)と話しかけたら、(小さい頃、父さんがツチノコの話をしてくれて、あそこの谷と、あの大池の近くにはツチノコがおって危ないから近づくなと言われた)と。
夜も更けたころ、隣にある楠にフクロウがやってきて、夜毎鳴いてくれる。耳を澄ましてその鳴き声を聴いていると、何やら語り掛けているように聴こえなくもない。現在私が住んでいる地区は、鳥の鳴き声や物事を、音や韻をふんで表現するのに長けた土地柄であるが、母親の生まれた地区は、鳥の鳴き声などを散文で、しかも厭世的に捉えるのが得意な土地柄である。因みにフクロウは(ホホウホホウ、ゴロスケホ。お前のカカは山の爺と餅搗いてホ。墓の下で横になるまでホ。搗いて搗いて、臼の割れるまで餅搗いてホ)なのだ。
ギンヤンマのことを、私が住んでいる地区ではメロ、もしくはメロキョウシと言った。鬼ヤンマはお盆の頃になると、開け放った部屋の中まで入って来るので、先祖のつかい(ショオロさん、あるいはショオロトンボ)として、大人も子供も捕らなかった。だがギンヤンマとなると夢中になった。とりわけ色の美しい雌を捕まえるのに必死になったものである。 先ず雄を捕まえ、糸でくくった端を木枝の先に結び振り回す。その時の囃子歌は(メローとめいえすえー、食うわんかい、刺さんかい。父ちゃんも爺ちゃんも刺さんかい)と歌う。
40-50年前まで歌われた戯れ歌の一つに(立神立石ころろ石、転んでみれば畑石、昼寝にちんぼをもじかれて、おくれと言ってもくれなんだ)というのがある。おそらく男女の関係についてのことが言われているのであろうと思うが、正確な意味は分からない。機会がある度に土地の古老に聞いてみるが、分からないという。古老曰く(そんなもん覚えとるのは、もうあんたぐらいのもんや。結構あんたももの好きやのう)。なるほど、結構ではなく、相当モノ好きかもしれない。癖・性分、直さなあかん。とは言え、直らんのが癖性分。
私は幼少の一時期を川の近くで過ごした。弁財天が祭ってある屋敷で、屋号は弁天なのである。現在は河川の工事で無くなってしまったが、以前は森が河に突き出るようにせり出していて、大きな椎や檜が茂っていた。おそらくは海鵜であろうと思うが、餌を獲りに川へ飛んで来て、潜っては餌を加えて首を出したりしているのをよく見かけたものである。その鵜が水面に首を出した時、観ている子供たちが、一斉に(ニッコベの頭に火がついたぞ)とはやし立て、再び水中へ潜らせたのであるが、なぜニッコベと言ったのかは分からない。
今私が住んでいる地区では、山鳩の鳴き声は(デデッポッポ、デデッポッポ)なのであるが、母の実家のある在所では(トショーリコイコイ、トショーリコイコイ)なのである。意味は(老人よ、来い来い)なのであるが、いわゆる小高い丘の上にある墓場へ、老人よ、早く来い来いという意味なのである。長生きも悪くはないが、いたずらに長生きをして、寝たっきりになったり痴呆症になったり、家族や他人の厄介になるくらいなら、早く墓場へと旅立つべきなのである。老後は如何に生きるべきかではなく、如何に死ぬべきか、山鳩に聞け。
神様に供えるのが榊で仏前に供えるのがシキミ(シキビ)というのが一般的である。しかし、狭い志摩の地でも、在所が異なると供える木も異なる。神棚に杉の葉(小枝)・お墓に椎の木の枝を供える土地もある。アセビや高野槇を供えるのは、その土地にシキミの木が少なかったからであろう。いずれにせよ何の木を供えようとも、供える人の心が問題なのである。自分の身内が亡くなると、やたら墓参りをする人がいる。それほどまでに思いを残す人であるならば、何故生前に、もっと愛情をもって接することが出来なかったのであろうか。
現在は枯れてしまって無いが、かつて母の実家に胴回り2,5メートル程の栗の木があった。秋になって栗のイガが開き、実が落ちてくるのだが、急な斜面を転がって、そのほとんどが川の中へ入ってしまうのである。それを川舟のヘリに腹這いになって拾うのであるが、砂を掻きまわしていると、大きなシジミが採れた。その当時は未だ川も美しく、シジミも黄色や黒色の光沢があった。30分程で結構な数の栗の実とシジミが採れたが、何故かそれを食べたという記憶が無い。子供には採ることの方が記憶に残るものなのだろうか。
相可から櫛田川に沿って丹生へ向かう途中、左折して山間に少しはいると、城山(291)への駐車場がある。この山の山頂近くに、近長谷寺があり、そこに高さ6,6メートルの十一面観音が祀られている。奈良・鎌倉の長谷寺と共に、日本三大観音と言われているが、案外伊勢志摩の人は知らない。手で握るのではなく、右手に錫杖を添えてある極めて珍しいものである。正面から拝観すると、膝の下近くまで基壇で隠れて見えない。元は長谷寺なのであるが、皇大神宮に近いということで、頭に近の一字をいただき、名を(近長谷寺)。
近郷の人は親しみを込めて、近長(ちかちょう)と呼ぶ。住職がいないので丹生大師(神宮寺)の住職が兼務すると聞いている。平素は地元の人が寺を管理してくれている。それ故に観音様を拝観できるのは祭日・日曜日だけであり、拝観したい人は、一応確認しておいた方がいいだろう。あくまでも個人的な意見であるが、これだけの仏像が祀られているわりには、建物の中も外も質素であり、祭日や日曜日でも、訪れる人はほとんどなく閑散としている。観光地化している他の寺院に比べ物足りなさもあるが、信仰は観光ではないのだ。
季節というよりは、自分の庭や所有地に花が咲くと、その時々に花の木の枝や蔓を切って持ってきてくれる友人がいる。あり難い。野菜や海産物、旅行の土産や手作りの菓子等もあり難いけれど、仕事や日々の移ろいのなかで、時として自分の生活を味気ないものにしていることに気付かされ、手渡された「花」に驚く。京都言葉に(はんなり)というのがあるが、一説にこれは(花なり)から来ているのだと言う。四季折々に色変え姿変えて咲く、その花を生けることによって生じるものは、正にはんなりとした時間と空間なのである。
三月、スーパーマーケットや魚屋の店頭に出ると、急いで買い求めてくる。採って天日で乾燥させた状態が麦藁に似ているので、麦藁ノリと言う地域もあるが、フライパンで乾煎りしながら揉み解したものをご飯に振りかけ、醤油を少々たらして頂くのである。見た目には海藻と言うより、寧ろ干し草のような感じがする。収穫量が少ないこともあって、ワカメや昆布のようにどこでも買えるというわけにはいかない。恐らく初めて目にする人は、値も幾らか高いこともあり、誰かに説明されないと、買い求めて口にすることは無い。
どこそこの名刹と言うのではなく、車で遠方へ出かける時には、その地域で眼に留まったお寺があれば立ち寄ってくる。なろうことなら田舎のお寺がいい。それと言うのも、その集落の規模とお寺の規模を比較したりすると、檀家である集落と、旦那寺としての関係や思い入れが見え隠れするようで面白い。小さな集落のわりに、途方もなく大きなお寺であったり、集落の佇まいがしっかりしているわりには、民家とさほど変わらないサイズの寺であったりする。ただどの業種も同じなのか、後継者のいないお寺や廃寺が多くなった。
一昔前まで田舎の川には、水場とか洗い場という場所があり、そこで野菜や食器・洗濯等をした。しかし最近は滅多に見かけなくなった。治水や護岸保全と言うこともあって、川の両岸をセメントでかためてしまい、見た目にはすっきりと整理された感はあるものの、風情が無くなってしまった。近年この側溝のようになってしまった川を、元の川の風景に戻そうという機運が、全国的にみられるようになってきたことは良い傾向である。若山牧水は(幾山河 こえさりゆかば さびしさの はてなん国ぞ きょうも旅ゆく)と歌った。
最近は少なくなったが、選挙運動の街宣カーの如く、ただ徒に商品名を連呼するだけのものがある。確かに記憶としては残るが、嫌悪感と共に残る気がする。それに反して、物静かな画面の中で、商品の気品や高級感を展開して、なるほどと頷かせるものもある。そんな中、アメリカの清涼飲料のコマーシャルに、桃太郎の物語をベースにSF的、或いはサイケ調に画面を展開させたものがある。アート的な要素が強く主張されており、近年稀にみるコマーシャル芸術であるといえる。安易にタレントに頼るものなど観たくも無い。
いつの時代であれ、国境も屋敷の境も、尽きることのないもめ事の種である。国境の場合、領土の問題ばかりではなく、宗教や民族・歴史的背景など、問題が複雑に絡み合っており、外野席で傍観しているほど単純ではないのかもしれない。況してや、たかが10センチや20センチの屋敷の境界で、夜叉や不動明王の如き顔をして罵り合っているのを見掛けると、さすがの御釈迦様も、生前に自らが説いた教えが、2500年経った現在にあって、全く人々の心の内に届いていないことを思い知らされ、さぞや愕然としていることであろう。
風景の中には、守られてきたもの・造られたもの・壊されて残った状態のものなど、今日に至るまでの推移は様々であるが、何処に美を感じるかも個々様々である。昔は街道の要衝に位置していた宿場が、新しいバイパスが出来たために廃れてしまった。そんな集落が時代の潮流に乗って、新しい観光スポットとして復活したり、今まで人気があり多くの観光客が来ていた所が、ブームが去って廃墟同然になってしまったりするように、常に人も町も移ろいの中にある。過ぎ去った一切のものは遠く、来たらざる一切のものも遠い。
本来、桜の象はその散り際にあると戦国の武将が語っている。それ故、墓場に咲く桜がもっとも美しいのだと。しかも根で人骨を巻き込んでいる桜の花が堪らなく美しいらしい。ならば、お前はどうなのだと、一本々々根を掘り返してみるわけにもいかない。実際に美しいかどうかは別の問題として、昨今の散骨ブームに乗っかって、桜並木へ散骨というのはどうだろうか。まあ、開花の時期以外は、犬の散歩でおしっこの洗礼を受けることは必定である。ルバイヤートではないが、一万年後、墓の土が何に使われるかは神も知らない。
昨今、××本家・○○本家・△△総本家等々、何でもかでもの本家流行りである。ラーメンやカレーの本家争いなどは別にして、田舎の小さな集落における本家・分家の関係は、今の時代にあってややこしいと言うよりは陳腐である。山間や海辺の過疎化した集落など、結束が必要な集落にとっては重要なことであるかもしれないが、それ以外の地域では、陳腐以外の何ものでもない。田舎を旅する時、その村々の墓地で、○○家本家の墓と刻まれた墓石が、墓参りしてくれる者も無く、苔むし風に吹かれ、傾いている様は無常を誘う。
孤独よりも孤独。時代の変遷とともに、一人の「孤」を取り巻く環境に於ける意味合いが変わってしまった。江戸の御代にあっては、芭蕉のような孤独と旅、一茶のような孤独と江戸、北斎のような孤独と眼差し。そこには確かな生命や魂の領域があり、神も虚ろな絵空事としての存在ではなかった。人々の内にも外にも神は存在し、孤独は慈しむべきもの、排除してはならないものとして、生活や創造の糧としてきた。しかるに現代における孤独は、常に嫌悪の対象であり、人の心や肉体を蝕み破壊していく闇の力なのである。
熊野の七里御浜の海岸近くにある神社で、ご神体は大きな岩山。下から見上げるとほぼ垂直の巨大な壁面になっており、日本最古の神社だと言われている。古代信仰にみられる巨岩・巨木に畏敬の念を払い、崇め奉る類のものであるが、実際その壁面の下に立って見上げると、(なるほど)と思えてくるから不思議だ。本来信仰に値するものは、尋ね探しあぐねしながら辿り着くものではなく、始めから其処にあるのだ、と言ったほうがいいような気がする。この先、様々な変遷の下、街や人が消えても、この岩山だけは残るだろう。
鰤や鮪・鯛や鮃のように、美味いというよりは寧ろ風情を感じさせる魚である。魚体は小さく、秋刀魚にすら見劣りする。それでいながら、この魚ほど自らの存在を主張する魚も稀である.この鮎を食べさせてくれるところが宮川ダムの近くにある。鮎定食で1200円。塩焼き1匹・揚げ物1匹・他に野菜の天ぷら・漬物・味噌汁・御飯である。とても美しく仕上がっていて単価的にも納得出来るのだが、要領が悪いのか些か待たされる時間が長い。程よく待たされるのは良いとして、1時間を超えてくると、もう話にならない。
言われ書きに「突然激しい咳が出て、この沢の水を飲んだところ、直に咳が治まった」とある。津々浦々によく似た話が伝わっており、眼病によく効く水(この類の話は案外多い)・子授けの水・血の病に効く水等々。医学的にも科学的にも根拠は無いが、何故か不思議と病が治ったり、長年出来なかった子供を授かったり、不思議が表に現れることがある。偶然で片付けるのは簡単であるが、偶然では済まされない何かを信じ、あるいは期待することによって、人は生活の中にささやかな安堵と、その地域の信仰を見出してきたのだ。
大雨の災害で船着き場が壊れていたのが修復され、ダム湖の観光船が再開された。幾らか勾配のきつい階段を下っていくと船乗り場がある。他の観光地の遊覧船と比べると、随分と小さい感じはするものの、人の気配のない緑なす渓谷を行くには、寧ろこれくらいのサイズの船の方がいいのかもしれない。観光する人の心のありようにもよるだろうが、街の日常とはかけ離れた時間の絵模様が展開されている。時間が流れているのか、「私」を乗せた船だけが動いているのか。身体に川風を感じながら、私の思いを湖面に広げていく。
夏休みになると増えるのが水難事故である。かく言う私も、台風前の荒れた海を撮影しようと、熊野灘に面した海岸へと出掛けて行った。岸辺近くの岩礁にぶち当たって砕ける波を撮るべく、小さな砂浜の反対側に場所を定め、撮影の準備をしているところへ、腰のあたりまでの波を背後から受けた。立っていた筈の、足元の砂が波にさらわれ、後は荒波の中でイモ洗い状態。生きた心地と言うような感情を抱くゆとりなどなく、ただ波の中でごろごろ転がされるままであった。それが何故か運よく、岸へ弾かれるように戻ってきた。
私は夏でも外出する時はジャケットを着る。荒波にさらわれた時、ジャケットの他に登山用の靴を履いていた。普通なら水の中では、あまり好ましくないいでたちなのだが、私の場合、それが幸いしたと言える。ジャケットの内側と外側のポケット一杯に砂が入り、更に靴の中にも砂が入って、ブレーキがかかった状態になったのであろうか、更なる深みへと引き込まれずに済んだ。その代わり着ていたジャケットはボロボロになり、靴も破れ、3日ほど足首の捻挫と腰の痛みで、這うこともままならない生活を強いられた。
宮川ダムから少し行ったところに、杉の大木を祭った大杉神社がある。杉の木そのものがご神体で、胸高周囲9メートル。一直線に伸びた見事の一語に尽きる姿である。遊覧船の切符売り場から、キャンプ場に向かって曲がりくねった山道を行くこと数分。駐車場から徒歩で3分程の所にある。パワースポットとして、若い女性に人気があるとのことだが、一見の価値はある。そのすぐ近くに、昔切られたものの、腐らずに残っている生き株がある。樹種は分からないが、新芽も吹かず、さりとて未だ腐りもせず、奇妙な株である。
志摩半島では庭石に使うような石は採れない。しかし、石垣に積むような山石は採れる。見地石のように固くは無いが、石垣にすると風情がある。カットせずにそのまま積むのが一般的で、寺や民家の石垣として使われているが、案外と大きなものが多く、ユンボやユニックの無い時代に、人力で大八車へ積み込み、野良道や山道を運んだかと思うと、その難儀さは想像に難くない。古い時代にあって、村々への道は細い、人が歩けるだけの道しかなかったように思えるが、建築用材を運ぶための大八車が通る道幅はあったのである。
セムシの人を指して言ったのだが、搗きあげた餅(ひと臼分)を数えるのに、ひとコボふたコボと数えたことから、丸まったものをコボと言ったのである。コボとコブは同意語なのである。野良道や山道の所々に、荷車や牛の行き来で、お互いが上手くかわせるためのコブ状のものが設けられていた。これもコボと言うのであるが、昔は誰かれといいわず、草を刈り取り、大八車やリヤカーの車輪やタイヤが食いこまないように、小石を敷くなどして手入れをした。ローマ帝国ばかりではなく、昔の日本の田舎も道は大切だったのだ。
家を建てるにあたって、大量の材木が必要なのだが、この志摩の地域では、石と同じで材木としての樹が少なかった。当然他の地域から購入して運び入れるのだが、現在の志摩市や鳥羽市で良材を大量に賄うことは難しく、南伊勢町や更に遠くの地域から持ってきたのである。トラックの無かった時代、大八車に載せ、人力や馬に曳かせて運んだのである。山の天辺までの道はともかくとして、相当急峻な峠道でも、大八車で様々な物を運び、人々は時代に生き、時代を超えてきたのである。日本の道は大八車の通れる道幅なのである。
江戸の御代にあっては、軍事上の意味合いで、大きな河には橋を架けさせなかったが、街道はよく発達していた。現在も紀伊半島に残る旧伊勢本海道・旧熊野街道・旧和歌山街道等は、新しい道路によって途切れ途切れになってはいるものの、崖の石積や山道の石畳など、丁寧に造られているし、昔往時を偲ばせるものがある。確かに現在の主要な国道や高速道路と比べれば稚拙なものであるが、山を削ったり湿地を埋めたりして、無理やり造られたものだけに、現代の道路は常に手入れがなされないと、直ぐ使えなくなってしまう。
他の地方と同じように、この志摩市でも過疎化に歯止めが利かない。老いた者や希望をなくした者は死出の旅に、若い者は都会へと去っていく。限界集落から消滅集落へ、多くの町や村が時代の中で、その生命力を失って消え去ろうとしている。果して、本当に地方の町や村は、時代の中で役割を終えたのであろうか。そして存在理由が無くなってしまったのだろうか。石碑に名前を刻み、享年を刻み、誰に記憶されることもなく、ただ生きたと言うだけの生の中で無常を嘆いて去っていく。それと同じように、村も消えていくのか。
志摩市では、阿児町・大王町・志摩町では、お寺や神社の石積に使う山石すら採れない。それでは現在積まれている石垣の石は、何処から運ばれてきたのかと言えば、磯部町・浜島町の山や谷から運ばれてきたものである。その中でも、とりわけ多いのが、恵利原・山田地区のものが多かったと聞き及んでいる。一部は五知からも運ばれたというが、大八車の時代、五知峠を越えて運ぶのは難儀な運搬作業であったことだろう。現在多くみられる見地石は後年のことであり、志摩の石工技術は寺社の石積に始まるのではないだろうか。
昔、少なくとも昭和30年代までの風景。家々の佇まいや河川、そして海岸線の懐かしい風景の多くは、失われてしまって今は見る影も無い。建物は鉄骨やセメントによるものに建て替えられ、河川や海岸もセメントで固められ様相を一変させている。人命や家屋、或いは田畑を守るための良策として工事が進められたのだろうが、最善策であったか否かとなると、甚だ疑問が残る。現在、伊勢神宮内宮手前のおかげ横丁が人気である。しかし、昭和30年代なら、全国津々浦々、どこにでもあったような、ありふれた風景なのである。
ゴールデンウィーク・春休み・夏休み・彼岸だ・正月だ、と言った調子で、何時の頃からか日本人は、あたふたあたふたと海外旅行だ、有名なお寺だ・神社だ、やれ温泉だと、決して立ち止まろうとはしない。それが国内となると、食事は目的地までコンビニの弁当かドライブインの饂飩かソバで良い。他人が行くから自分達も行く、とにかく急げ。急がないと売り切れて買えなくなる。早く並ばないと、人気のxxxが食べられない等々。とにかく慌ただしいのだ。やがて急ぎに急いで、これもまた地獄だ、極楽だと去っていく。
知り合いが50代でボケてしまった。哀しく気の毒なことである。つい昨日まで、ああだ・こうだと喋っていた人間が、自らの多くの記憶を失ってしまったのである。若年性痴呆症は発症してからの進行が早いと言われている。これから今迄の人生を総括して、自らの世界を完成させていかなければならない時に、その精神世界が空中分解してしまったのである。しかも近年、この痴呆症がインフルエンザの如く、次々と感染していっているように感じられる。宛らコピー機の紙詰まりのように、「私」が次々と詰まっていくのだ。
他人事ではない。近年、自分も、何故・何故想い出せないのだ、というようなことが多々ある。神仏から遠く離れて今日まで旅してきた身上ではあるが、旅の日々を遠く感じるのは歳のせいなのか、それとも記憶の紙がぐちゃぐちゃになりつつあることに起因するのかは分からないけれども、完璧な痴呆状態になる前に、伝えておきたいことがある。この歳になるまで、様々な出会いがあり、そして別れを繰り返してきたが、忘却の前に一言。享年94歳で逝った母が、ただひたすら思い続けたのは、別れた娘ただ一人であった。と。
もう一つ言っておかなければならないことが。孔子先生も、20代に付いては語らず、一世代飛ばして30からにしているが、何れにせよ20代・30代は身体が勝手に動いて、語るには些かややこしい年頃なのであろう。かく言う私も、考えることよりも感じることの方が多かったように思う。常に更なる感覚を求めて、新しい一日へ新しい旅を求めて、身体は異郷の地へ、時や風景・人を求めて、決して立ち止まろうとはしなかった。そんな強い旅への衝動もおさまり、次は忘却への旅か。愛し、今なお思う異郷の人よ。感謝。
近年、地震や火山のことがテレビや新聞で話題になっているが、本当に巨大地震が起こるのか、火山が爆発するのか、確かなことは誰にも分からない。けれども長い時間の推移の中で、この志摩半島だけでも、幾度も隆起沈降を繰り返してきたのである。そのことを思えば、近年世界の其処此処で起こっている自然災害など、さして驚くほどのことではない。この地球が一つの生命体であると考えるなら、私達人間も、全体として一つの生命体なのである。私一人が死んでも、世界は何も変わらないし、あなたが死んでも同じこと。
折角この世界へやって来たのだから、ボケることなく、しつっこく生きる。生き切るということが大切なことなのではないだろうか。一人の死には然したる意味は無いし、ボケも同じである。けれども一人ひとりが、したたかに生きるという強い意志をもって、自らの運命に対して前進を始めた時、人間全体が強い光彩を放つ存在として、それを構成する一人ひとりもまた、確かな価値ある存在へと変化していくのではないだろうか。無常を遠ざけ、刹那を語らず、孤独の恐怖と力に敗北することなく、未来を拓くことが出来る筈だ。
梅雨入りを目前にして、今まさに麦の秋という風情である。一昔前までは、この志摩の地でも小麦を耕作していたが、最近は黄金色をした小麦畑を見掛けなくなった。そんな思いの中、つい先日仕事で松阪へ行った折に、市街をはずれ田舎道を走っていると、なんと見事なまでに色づき、黄金色をした小麦畑が広がっているではないか。車を止めてカメラに収めたものの、やはり現実の風景が全て。暫し何思うでもなく黙然としていた次第である。農家の人に麦の穂を5本貰って部屋に飾ってあるが、何故かムカデが寄ってくる。
丹生の大師さんの前に、ふれあいの館(道の駅の類)がある。ここの館長に(ここは、お大師さん以外には何も無いところだね)と言ったら(そんなことはないです。他にも色々ありますよ)と言うことで、近くのお寺に公孫樹の大木があることを教えてくれた。近いですと言ってくれたが、車で行ったら、在所中の狭い道に気を取られ、そのまま行ったら別のお寺へ着いた。ところがこのお寺にも公孫樹の大木があって、見上げていると、庭の手入れをしていた住職が気さくに話しかけてくれた。色々話してくれたが、人に出会うという妙。
住職の話しの中で、この寺は昔、志摩の国府村の大工によって建てられたものであるということや、普賢菩薩の乗っている象の牙は、3本一対の合計6本なのである等といったことを、短い時間の中で教えていただいた。さて話を公孫樹の大木に戻すが、もう一度公孫樹のある寺を教えてもらって車で行った。寺の前の道路は、車一台止めても充分な幅があった。山門は閉っていたが、通用門が半開きになっていたので、勝手に庭を覗かせてもらった。なるほど太い、茂った葉で、広い本堂の庭がうす暗く感じられる程の大木である。
日を改めて公孫樹の大木を観に行った。偶然住職が庭木の剪定をしていて、あれこれ寺の歴史について教えていただいた。寺の名は本福寺。山門の上に鐘楼のある見事な構えのお寺である。さて目的の大公孫樹であるが、地面の僅か4.50センチのところから8本に幹が分かれており、その何れもがひと抱えもある代物である。まず三重県では他に類例のない形をした大木である。このお寺は、本堂から庫裏への渡り廊下の下をくぐると裏庭へ行ける。大きな池に突き出たように茶室が構えてある。沈黙した時間が流れている。
スペインなどにある聖地を巡る巡礼の旅の途上、同じ旅を行く者が出会った時に、お互いがかけあう言葉である。意味は(もっと遠くへ)ということなのだが、(お気を付けて)でも、(神の御加護がありますように)でもない。もっと遠くへ、なのである。旅は、その目的とするところへの到達も良いが、やはり旅は途上がいい。旅を何時始めるのか、何故始めるのかはともかくとして、巡礼の旅に到達点や終わりはあるのだろうか。振り返れば、随分な年月を旅してきたように思えるが、今も旅している。誰かが、そして誰かにウルトレーヤ。
田舎へ行くと、その山道や畑道など、歴史を感じさせるというよりは、寧ろそこはかとした懐かしさや安堵感を感じさせる道がある。一つの土地に人が移り住み、家が出来て畑が出来て、田圃が出来て道が出来る。その順番の程は分からないが、何れにせよ道は、集落と同じ歳月を経てきているのだ。広い田圃の畔道でもない限り、ほとんどの道は程良く、或いは気紛れに曲がっている。思いがけないところで石の野仏や道標に出合うと、誰も知らない遠い昔の時間が、一瞬眼の前に現れたような気がして、ぶらり歩きの私を喜ばせる。
伊勢市界隈で栽培されている柿の一種なのだが、平柿と言う地域もあれば、甲賀柿と言う地域もある。伊勢市界隈のものとは異なって、他の地域のものは、剪定などの手入れはあまりしないから、同じ品種のものでも果実は小さく不揃いである。果実の出来・不出来は別の問題として、全てではないが基本的には渋柿である。それ故、渋を抜いてから食べるのであるが、この柿は他の次郎柿・ふゆう柿・筆柿等と比較すると、然程甘くなく決して一級品の味ではないが、飽きのこない味であり、とりわけ木で熟したものは、まさに秋。
英虞湾や五か所湾の海岸沿い、或いは汽水域に自生している落葉の低木である。黄色の芙蓉に似た花を咲かせる。海水に浸かっても枯れることなく、植生は強いものと思われる。近年このハマボウが、内海の景観造りや自然保護の見地から見直されつつある。汽水域、それも海岸ギリギリの場所に繁茂して、自らが陸地深く領域を広げていくということはない。分をわきまえているのか、強敵ウバメガシには勝てないからなのか、何れにせよ「おやまぁー」と感心するような場所に生えていることがある。正に元祖根性大根の類である。
全国にある○○富士の類であるが、あまた数ある中でも、とびっきりミニサイズの富士である。海抜178m、車で途中まで行けるが登山口で車を降り、個人所有のミカン畑の中の道を通らせてもらい、その先は頂上近くの石段まで道らしき道は無い。立木に赤いテープが巻きつけてあるだけのものである。帰りに気付いたのであるが、登る途中、二股に分かれている所で左へ行けば視界が開けており、幾らか道らしき道がある。ただ低い山とは言え、極めて急峻な山であるため、ズックのような滑りやすい履物は避けたほうが良い。
先に梵潮寺(鳥羽市)の蘇鉄について書いたが、先日津市内にある四天王寺で葬儀があり、車ではなく電車で出掛けた。亡くなったのはまだ34歳の教育指導者である。無念の思いがあるので当事者についてはこれ以上書かないとして、この御寺の境内に、梵潮寺の蘇鉄(樹齢700年)とほぼ同じくらいの蘇鉄があった。帰りの予定時刻より少し時間があったので、一人でぶらぶら市内を歩いてみた。平素は車で通り過ぎるだけで、然して気にも留めない風景の中に、長い歴史を繋げてきた建物や石組が其処此処に散見できる。さすがは津の街。
30・40年前と比較すると、観光地は一様に美しくなったように思える。散策する道路には御影石や大理石の板石が敷かれ、土産物を売る店舗の中までも続いているのだ。全体的に明るく、清潔感も感じられる。しかし何故か、何処か意識の中に違和感があるのは、私だけの感覚だろうか。そう思って先日友人と話してみたところ(長い時間を掻い潜っていない、いわゆる俄かなのだ。しかも二級品の寄せ集めであり、土地の匂いや表情、方言を感じさせない無機質なセットの中を、空々とした表情でまたぞろ人々が行き交うばかり)
最近は読まれることも少ないのではないかと思える小説に、ヘッセの(郷愁)というのがある。内容の是非については好き嫌いがあろうかと思うが、作中の雲の描写は見事である。まあ、その作品については、直接読んでもらうより方法はないが、タイトルの(郷愁)について一言。様々な異郷の地へ旅して感じることは、まさに郷愁を誘うような、そんなところへ降り立つことがないのだ。名所・旧跡ということで立ち寄ってみると、見事なまでに整備され、どこもかしこも押し並べてみな同じような仕上がり。あげくの果てに有料駐車場。
丹生の大師の大祭(12月21日)の餅まきに参加させていただいた。お寺の様々な行事の後、午後からの餅まきであったが、ところ変わればとでも言おうか、餅の形に幾らか驚いた次第。それと言うのも、餅の形が丸くないのだ。細長く切った餅を更に適当サイズに切ってあるから、形が一様でない。其れにもまして驚いたのが、大きな楕円形の餅で、長さが17センチ程は有ろうかというサイズなのである。無論餅を搗いてから数時間程度しか経っていないから、まだ幾らか柔らかさを残している。柔らかさは拾う人への配慮なのか。
様々な土地へ出向いていって、名所旧跡とは別に、大木に出合えることを旅の楽しみの一つにしている。高木は総じて条件さへ合えば、ほぼ同じくらいの太さに成長するように思える。神社や旧街道の並木にみられる杉や公孫樹等は別にして、南の地域では楠の大木を多く見かける。しかしこの楠の樹の大半は、根元の中心部分が腐って空洞になっていることが多い。その代表的なものの一つに、二見町(伊勢市)の松下社境内にある楠であろうか。中心部のほとんどが失われ、まさに抽象絵画の紋様さながら。樹の霊として抜け出たのか。
記憶は定かではないが、多分宮城県であったと思うが、見事な姿をした松の大木に出合ったことがある。傍に名前を記した案内板があったが、それには(笠松)とあった。正に菅笠を伏せた形そっくりで、道路脇に一本、漂然として佇んでいた。大木と言っても、驚くほどの太さではないが、自然の状態での立ち姿は天下一品である。台風や松くい虫等で枯れることなく、今もその姿を保っているのだろうか。もしこの松を御存知の方がいましたら、松のある場所を教えていただきたい。25年ほど前のことですが、何故か記憶に残る。
我が家の敷地から30メートルほどの距離しかない小学校の敷地で、大きな松茸が2本採れて、近所かいわいの話題になった。奇跡かと思ったが、近所の老人が言うには(この英虞湾の近くの土地は、赤松とウバメガシと背の低いシダが生えているところでは、大抵のところで松茸が採れる)とか。で(自分は足が悪くて、もう山へ入って行って松茸を採ることが出来ない)ということで、採れる場所を教えてもらったが、松茸の採れるところには、不思議とマムシがいるとのこと。美味い物は、そう簡単には手に入れることが出来ないか。
最近は女性が様々なものに着目して、次々とブームを巻き起こしてくれている。山ガール・寺ガール・仏像ガール等。が、35年ほど前であったか、沼津市内のホテルに宿泊した折に、その庭園内の樹木の数本が市の保存木に指定されていて、ナンバープレイトと樹種が記されていたように記憶している。古木や巨木のような特別なものは別として、樹齢100年程度のものに対しての指定であっただけに、少なからず感心した次第であった。その当時は未だ街の樹木の保護に眼が向けられていなかった。誰の発案で始まったのか。
けったいな名前をいただいた木である。志摩地方では御座の爪切り不動尊、青峰山・正福寺の境内にみられる。名前の由来は、樹皮が剥がれ落ちて新しい木肌をさらすために、博打に負けて身ぐるみを剥がされ、丸裸になった状態に準えたものであろうと思うが、正に言い得て妙。剥がれ落ちたと言うよりは、寧ろ剥ぎ取られたという感が強い。両境内のものは、誰かが植えたものであろうが、何故この木を、と言う思いがしないでもない。ちなみにサルスベリでは無く、サルコカシともいう。滑るのではなく、掴んだ皮ごと落ちる。
気根が老婆の乳房のように、垂れ下がって見えることから付けられた名称である。公孫樹が老木になると、と言われているが、必ずしも老木の全てが乳公孫樹の状態になるわけではない。志摩では浜島のスポーツ公園近くにあるが、この樹の垂れ下がった気根は土中に突き刺さっていて、老婆の乳房どころではない。極めて珍しい状態の乳公孫樹の樹である。然程太い樹ではなく、環境も一応整備されているが、すり鉢の底にあるような状態で、必ずしもいいとは言えない。それでも秋になると多くの銀杏を実らせて風情を感じさせる。
苔の仲間にも同じ名前のものがある。名前の由来は幾つかあるものの、植物で訳の分からないモノや初めて眼にするモノには、取り敢えずということで、この名前を付けてきたらしい。そんなこともあってヒトツバタゴだけを(ナンジャモンジャ)と言う訳ではない。最近は通販等でも販売されているが、街の苗木屋でも稀に見かけることがある。小さなものは別にして、ある程度の大きさのものは伊勢神宮・大紀町(滝原)にある。もしヒトツバタゴ以外の樹で、ナンジャモンジャと呼ばれている樹を知っていたら教えていただきたい。
今年は知人が天然のウナギを幾度も持って来てくれた。しかも大ウナギの立派なものである。稚魚のシラスが少なく、価格高騰の折に、感謝感激と言う次第であった。ところでウナギと言えば蒲焼。背開きか腹開きか、蒸すのか蒸さないのか、いわゆる関東風か関西風かの違いはあるものの、何れも仕上げは焼きあげることに関しては同じである。ところで、食に関しては一家言持っておられる諸氏は、煮ウナギというのを御存知だろうか。しっかり焼きあげた後、昆布でダシをとり・砂糖・酒を加え、後は魚と同じように煮るのだ。
いつの時代から漆が用いられてきたのかは分からないが、高い湿度と温度が無いと上手く乾燥しない。しかも垂れた部分は乾かないから、油絵の具のように、薄く溶いた絵の具で、仕上げの御つゆ掛けというようなことは出来ない。漆を塗る樹の種類は、一般的には樹脂の少ない広葉樹が良く、油成分の多い樹は、長い時間の推移のなかで、表面に小さな突起や歪みが生じてくるし、薄い板や大きな製品になると全体的な歪みや亀裂も生じる。埃を嫌うというが、寧ろ気を付けなければならないのは、仕上げ筆や刷毛の手入れである。
漆を木に塗る場合、基本的に木の種類は広葉樹がよく、針葉樹(松・杉・檜)のように、油性の強い樹液を含んでいる木は漆を塗る素材としては好ましくない。それでも、この材料でという場合、脱脂処理をしなければならない。様々な処理の方法があるものの、油性の多い節や芯の部分などは、薬品や焼き鏝による処理を施しても、長い時間の推移の中で、剥離や亀裂・変色や面の歪みなどが生じてくる。日常生活用品としての盆や膳、椀や箸等はともかくとして、装飾品としての漆製品となると、素材を吟味する必要がある。
今年の夏の暑さばかりではないと思うが、庭木として植えてある白樫の樹が2本。幹のそこかしこから樹液を吹き出し、クワガタムシ・カブトムシ・こがね虫が樹液を求めてやってくる。昼間はオオスズメバチも飛んでくるので危ないが、夜の8時を過ぎる頃になると蜂はいなくなり、こがね虫も去り、後はクワガタムシとカブトムシの天下となる。クワガタムシの種類について知識は無いが、豆粒サイズのものから大きなものまで、様々な形のものがやってくる。隣の幼い兄弟にとって、今夏は楽しい採集の場所になったようだ。
丘や山から遠くを一望する。眼下に広がる街や、更に彼方に広がる水平線。感動的なものもあれば、難儀して山道を登ったわりには失望させられる風景もある。それは志摩半島についても同じことで、良い風景・感動的な風景は其処へ行かなければ出合えないのである。海を風景の一部、或いは主体とするような地域は、陸から海を観る風景をPRする傾向にあるが、寧ろ本当に美しいのは、海からの、それもより海面に近い位置から、陸を観る風景である。心行くまでの志摩半島(英虞湾)の美しさも、海面ギリギリの位置からにある。
物事に対する好みは様々である。古い家並みであっても、街の一部を構成するものであったり、山村や漁村の限界集落であったり、そのたたずまいは一様ではない。況してやその風景が醸し出す雰囲気は、長い時間の堆積による切なるものへの哀情であろうか。近年、日本各地で村興し、町興しに余念がない。色々PRしているから行ってみると、無理やり繋ぎ合わせたものや、繕いだらけのものが大半である。ひなびた山村の山道で出会った老婆。畑からの帰りであろうか、肩に袋を背負い、ほとんど歯の抜けた顔いっぱいに広がる笑顔。
人は何故、遺跡や廃墟に魅かれるのであろうか。其処に旅をする一人ひとりの、心の状態にもよるのであろうが、通り過ぎた奇妙な時間への回帰に、幻視の風景を重ね合わせるのであろうか。ともあれ本来、家族も集落も・街も部族も民族も、幾度となく離合集散を繰り返し、あるものは滅び、あるものは残った。廃れるにはそれだけの理由があり、復活・あるいは繁栄するにはそれだけの理由がある。人に眠りが必要なように、眠りにある村や街を無理やり起こしてはならない。無理やり揺さぶり起こして、半ボケの街の多いこと。
様々な形や色の橋がある。その中には、ただ単に道を繋げていくだけの橋と、何かしら一つの思いを抱かせるような橋とがある。近年、味もそっけもない橋の多い中、南伊勢町にちょっと立ち止まりたくなるような、奇妙な思いを抱かせる小さな橋がある。橋の名前は知らない。春には桜並木の桜が川面に花弁を散らし、橋の下をくぐって海へと流れていく。夏には涼風が川面を下り、秋には紅葉がほんの少し川面に色を添えるが、橋のたもとで立ち止まった者にしか分からない。其処には、旅愁でも気取りでもない何かがある。
座頭橋だとは思うが、小川に架かる長さ数メートルの何でもない橋である。車を運転しながら橋だと気付くことも無いのではないかと思えるくらいの橋である。それ故、在所の住人くらいしか橋の名前は知らないであろうと思う。私にとっても、その周囲の風景が際立っているわけでもない、ありふれた佇まいの中の、有るのか無いのか分からないような橋であり、日頃車で通り過ぎるときも、橋の存在を意識することは無い。ただザトウという語感が非日常的であり、何故か妙に記憶の中を駆け巡り、私を盆の送り火へと誘う。
座頭橋から直ぐのところに池田橋がある。地震対策のこともあってか、現在は立派な姿になっている。この橋の上流に上池田橋が架かっていて、盆の送り火として、竹の芯に小麦の藁を巻きつけて松明を拵え、燃える松明をぐるぐる回しながら、数や勢いを競ったものである。最近は小麦を作らなくなったのと、下流域でノリ網養殖が始まり、燃えさしを川に捨てるとノリ網に絡みついて邪魔になるとか、色々な事情で止めてしまった。国道に架かる橋であるが、昔は送り火が終わるまで、観光バスも車を止めてくれたものである。
煮ウナギにする場合、ダシ汁は薄味にして煮るのが良い。味が濃いと甘露煮の如きものに仕上がってしまい、ウナギ本来の味が損なわれてしまう。しかも煮ウナギにするには、天然の大きなウナギでないと上手くいかない。と言うのも、養殖ウナギでは焼いて煮込むと煮崩れしてしまう。仕上がったウナギを幾らか大きめの器に、だし汁と共に盛り付け、千切りにした茗荷を添えれば出来上がりなのだが、煮ウナギに山椒は野暮である。難儀しながらも、これで一杯という次第なのであるが、この時の酒器は志野のぐい飲みに限る。
青峯山はいたる処から水が噴き出している。大きな寺や神社のある山は、例外的なものを除いて水が豊かである。それ故に霊的なのか、霊的故に水が豊かなのかはともかくとして、山が守られていて森が深いことは確かである。その意味において、この志摩半島には大きな面積を有する森というものが無い。いわゆる半島全体が漠然とした雑木林で、自然の森林構造を成していないのである。その半島を私達は寄って集って、削ったり埋めたりを繰り返してきた。一体何を求めて何処へ行こうとしているのだろうか、この志摩の雀は。
熊野灘沿岸は、海岸線に沿ってウバメガシが密集して林を形成している。遠くから観ると山全体が黒く感じられる。古くから魚付林として大切にされてきたところも多くあったが、時の流れか、別荘地や分譲目的の開発、あるいは備長炭の材料として、多くの林が伐採され消えていった。木質は固く、生長に時間のかかる樹である。植木屋の話では、自然の植生として伊勢・松坂ではほとんど無く、関・亀山では全く見かけないということである。乾燥するとヒビが入りやすいせいか、根付やこけし等の素材に使われることもない。
志摩ではナマズの兄弟とも、ドジョウの親分とも思えるゴンズイを食べる地域がある。外海に面した地域ではほとんど食べないが、内海に面した地域では、昔から普通に食べられてきた。些かグロテスクな姿をして、毒針を3本もっている。煮て皿に乗せられた様を見たら、食指の話どころか、間違いなく嫌悪感を抱く筈だ。私も最初は地獄の泥沼からはい出してきたナマズかと思って食べられなかった。食べ慣れれば美味いのだが、構えて食べるほどのものでもない。好き嫌いは別にして、食べない物が一つくらいあっても良い。
このお寺には、昭和五百羅漢がある。深い杉林に包まれた古刹である。杉以外の樹木が少ないせいもあってか、全体の風景は幾らか単調ではあるものの、落ち着いたたたずまいに誰しもが安堵するのではないだろうか。昭和五百羅漢というだけのことはあって、なかなかユニークな顔ぶれである。これこそ正に(百聞は一見に如かず)の類で、よくもまあ、こんな姿の羅漢様を、と思わず吹き出してしまうこと必定。しかし其れにもまして見応えのあるのが、美しい曲面をした巨岩の上に建つ鐘楼である。石段から見上げる完成された美。
三重県の人にとって岡寺と言えば、松阪にある岡寺を想像するのが一般的である。しかし明日香の山中にある岡寺は、些か趣が異なる。先ず本堂までの参道が大変なのである。駐車場から続く山道を登り終え、やれやれ、やっと着いたかと思いきや、其処から今度は長い石段が始まるのである。それでも難儀して本堂の前に辿り着くと、不思議な安堵感に包まれる。大きな塑像仏の如意輪観音様を見上げながら、ふとお寺全体が、時の箱舟でもあるかの如き錯覚を覚える。数百年の歳月を経て、此処には普遍の安堵が広がっている。
健康志向全盛の時代とでも言おうか、朝な夕なに散歩をしている人を見かける。遠隔の知人に、好く晴れた日の夕刻にしか散歩をしない人がいる。一度その訳をたずねたことがある。曰く(別に健康を気遣っての散歩ではなく、自分の心を解き放って、少しばかりの時間を逍遥するだけだから、毎日する必要はない)とのことである。なるほどと頷きはしたものの、こういう女性が自分の彼女とか女房であったら、さぞかし大変だろうなと邪推したら、その意を察して(身体も心も結び開くのは、何事によらず慈しみの心あってのこと)。
詳名は(松島青龍山瑞巌円福禅寺)と些か長ったらしいが、東北きっての名刹である。左右に太い杉木立を見て、ほぼ直線の参道が本堂へと続く。廊下は鴬張りで、建物全体は重厚感があり落ち着いているが、奈良等の大寺と比べると、どこか違うような気がする。それは海岸近くにあり、空気に潮を感じさせるというようなものではなく、もっと別のものが内と外に流れているように感じられる。御仏の教えを説くのは同じではあるが、其々の土地によって、醸し出す雰囲気は微妙に異なる。これも御仏の教えの大きさなのだろうか。
最近は箸を美しく使う人を見かけなくなった。如何にナイフやフォークを使う機会が多くなったとはいえ、全く箸を使わないということでもない。別に箸の扱いが上手くなくても食べられる理由の一つに、割り箸というものがある。割り箸というものは、その扱いが下手であっても、不思議なことにラッキョウも煮豆もはさめるのである。ところが塗り箸となると、その扱いは難しいし、ましてや観ていて感心するほどの箸の扱いとなると、それなりの作法も習得しなければならない。生まれや育ちにもよるが、食への美意識が必要。
個性の多様化とでも言おうか、それとも個性の喪失化と言うべきなのか、なるほどと感じさせながらも、個々の「孤」に物足りなさを感じるのは私だけなのであろうか。有名ブランドの洋服や皮革製品、眼鏡に時計等々、老いも若きもこぞって同じものを買い求める。製品の良さもあるが、どこか違和感を抱かせる。(猫も杓子も)という言葉があるが、ブランド物を身にまとい、どうだと言わんばかりの顔をされても、その御本尊が日曜朝市の冬瓜では如何ともし難い。冬瓜はステーキにはならないが、手の掛けようによっては様になる。
電話を受信する方にとっては厄介である。概ね何かの勧誘なのであるが、一部には個人的な無言電話があると聞く。そもそも古来より、神のみ前に額ずき祈る時には、先ず自らの名前を名乗るのが礼儀である。それと同じで、電話をする時は自らを明確にするべきである。しかるに自らの名を隠して、さらに無言のまま電話を切るなどとは、無礼千万、もってのほかとしか言いようがない。如何なる思いで他人に無言電話や非通知電話をするのか分からないが、その時間も大切な人生のひと時、庭の掃除でもしてみたら如何か。
最近、やたら散歩している人が眼に留まる。健康や気分転換のため等々、理由は様々であろうが、どこか風情が無い。風景から浮き出ているのだ。毎日のノルマとして距離やコースを定め、同じことを繰り返すばかりで、いわゆる心を遊ばせるものではない。冬ざれた野に出て風情を愛でるとか、黄昏時の磯辺に逍遥し、自らをその風景の中に置くというような、精神性の感じられないものである。一人の(私)がまたぞろ家々から這い出してきて、黄泉の国への行軍さながらの感がある。それとも黄泉の国からやって来た亡霊なのか。
車を走らせて山間の里へ。時折落ち着いた風情のある風景に出合うことがある。別に何を思うでもなく空き地に車を止めて、ぶらり界隈を散策するのだが、一見何も無さそうな集落を歩くと、地蔵様や旧街道の道標、集落の規模には不釣り合いなほど大きな寺や、想像もしていなかった大木が小川の土手に茂っていたりする。そんな中、いたるところに彼岸花が咲いている集落の中の小道を歩いたことがある。土地の人は然程気に留める風でもなかったが、まさに絵のような風景なのである。こんな時に限ってカメラを持っていない。
便利ではあるが、これほど厄介な代物もない。何処からでも連絡が取れる半面、こちらの都合や状況に関係なくかかってくる。しかも塩梅の悪い時に限って、どうでもいいような内容なのである。近くに在っては自慢話や下世話の噂話に終始し、電話にあっても然程の差異は無い。そもそも言葉が何処からやって来て、何処へ消えていくのかについて多少なりとも思いを馳せるなら、やたら無意味な言葉を発する必要もないのだが、ポケットにある煙草をつい口にするのと同じで、これもある種の時代が創造した病なのかもしれない。
真珠研究所跡の近くにイチョウの樹がある。大木という程のものではないが、黄葉した様は小さな島にあって異彩を放つ。残念なことに賢島の港界隈からは観ることが出来ないものの、もし樹の全体が観える場所にあったなら、黄葉する僅かの期間ながら、英虞湾に一幅の絵を展開するに違いない。美しい風景を更に美しく変化させるのは、大金を投じての公園造りではなく、時間の彼方を見通した美意識なのである。たった一本の苗木が人間の想像力を超え、その未来に新しい美の創造主として、輝きを放っていくに違いない。
近未来に於いて発生すると予測される地震による津波の高さが報道され、志摩半島の一部では、その高さが30メートルを超える地域もあるという。緩やかな傾斜地に於ける遡上高はその4倍と言われているから、100メートル以上の地点まで到達することになる数値だが、案外自然は人間の予測を遥かに超えて、新しい世界を展開していくのかもしれない。人間にとっては破壊であるかもしれないが、自然と時の流れの中にあっては、創造であり流転である。いつの時代にあっても、人は虚しいと知りつつ同じ処に立ち止まる。
津波対策に志摩半島でも、人家の密集した地域の護岸工事が進められている。東日本の震災前に、茨木から岩手まで旅したことがあるが、驚くべきスケールのものであったように記憶している。それが自然の力によって、いとも呆気なく破壊されてしまった。その規模と比較すれば急ぎの工事とは言え、些か心もとない感がある。地震や津波の規模にもよるであろうが、安全だ、と言い切れる場所は何処にも無い。立ち向かうべきなのか、逃げるべきなのか。とりあえず縄文の線まで後ずさりするのが、賢明なのではないだろうか。
短詩形で現された仏教の経典である。ややこしい宗教書や哲学書に比べ解りやすく、現代に通じるものも多い。その一つに「愛する者に近付くことなかれ、愛せざる者にも近付くことなかれ。愛する者を見ざるは苦なり、愛せざる者を見るもまた苦なり」というのがある。人は出会うことによって人を愛し、愛するゆえの悲しみが生じるのであるが、両情一致の場合以外は、常に身勝手なものである。ましてや自らが愛してもいない相手から思われるのは、苦以外の何ものでもない。正に話をすることはおろか、見るのも苦なのだ。
「益なき千の言葉より、心の安らぎを得る一言こそ、いのちの言葉なれ」というのがある。孤独や心の闇の世界が取りざたされている昨今、言葉の持つ意味の軽重が問いかけられている。身勝手で思いやりのない言葉を投げかけ、他者を死に追い詰めることに微塵の躊躇いもないのである。時代と言ってしまえば其れまでなのだが、物質的には豊かでありながら、不思議と希望や目的の見出しにくい時代であることも確かだ。この空漠とした虚飾の社会のなかで、幻視でも架空でもない「私」の世界を創造していかなければならない。
鳥羽市船津の山中に白滝大明神がある。加茂川沿いの駐車場から、歩いて15分程の距離であろうか。小さいながらも滝があり、昔から白滝さんとして祀られ大切にされてきた。いま環境整備をしながらの開発がすすめられているが、季節にもよるものの、飛び石で渡れる美しい川が流れており、なかなか風情のあるところである。登山口に社務所(どんぐり小屋)があり、昔懐かしい囲炉裏や五右衛門風呂、牛の飼われていたところ等もある。今後どのように開発が進められていくのか分からないが、俗っぽさは避けてほしいものだ。
三重県の饂飩では圧倒的に(伊勢うどん)が有名であるが、料理されたうどんの味は別の問題として、讃岐や安城等の饂飩と比較すると、「コシ」の強さや、饂飩そのものの食感等は曖昧である。今まで三重県に(うどん)は無いものだと思っていたが、然にあらず。
先日、ドライブの帰り道(名物・片野うどん)の看板があったので車を止め、饂飩と蕎麦を買い求めてきた。うどん好きの諸氏には様々な意見があろうかと思うが、其処に(うどん)があった。田園風景の広がる中にある小さな集落。案外間近にある多くの(何か)を観落としているのかもしれない。そんな思いを抱かせる饂飩と蕎麦でした。
養殖業が衰退してからは、余り人の訪れることのない過疎の島である。真珠養殖で栄えた島であるが、今は見る影も無い。
港界隈に集落が密集してあり、後はそれぞれの入り江に作業小屋が点在するだけで、島全体の多くの土地は手付かずの自然が残されている。椎の木の大木で覆われ、谷が原始其のままで残されているようなところもあり、島の地形による特異な植生を感じさせる。
それにもまして、島やその周辺から望む景観は絶景の一語に尽きる。観光地「伊勢志摩」にありながら、今はほとんど忘れ去られている忘却の島である。しかし其処には、神宮の神域で感じるものとは異なった、「私」の時間が流れている。
大小様々な島を織りなし、静かな佇まいを見せる湾である。志摩市5町のうち4町に取り囲まれ、横山や登茂山の展望台からの眺望は絶景である。しかし多くの観光客に愛されながら、意外に知られていないのが、湾内からの風景である。賢島と和具から定期船、賢島からは遊覧船も出ているが、もし時間があるなら、地元の作業船をチャーターして、ゆっくり島巡りをしてみてはいかがだろうか。
入り江から入江へと、終日舟で遊ぶ。「私」を決して退屈させない何かが其処にある。
志摩半島の先端に位置する御座に、弘法大師(空海)が大きな石に爪で彫ったと伝えられる不動明王が祀られている。秘仏中の秘仏、いわゆる絶対秘仏で、未だ誰もその姿を見たことが無いという。小ぢんまりとした谷間に幾つもの社があり、さながら箱庭のようである。日本三大不動尊に数えられているが、その規模は驚くほど小さい。しかしながら、(山は高きゆえに尊からず)の言葉もあるように、知る人は(霊験あらたかである)と言う。形骸化した大きな神社とは異なり、不動尊と相対して、いま自分が此処にいるという、「私」を実感できることは確かである。
ただ日本三大不動尊は諸説あり定かではないが、江戸時代におけるお伊勢詣のコースの一つでもあったことを考えると、やはり霊験あらたかなのであろう。南無不動明王。
志摩半島の先端近く、外海に位置する。決して大きくはないが、緩やかな弧をえがいて、その中ほどに小島を一つ抱く、白く美しい砂浜である。夏の海水浴もいいが、四季を通じて風情のある浜辺であり、とりわけ好く晴れた日、波打ち際からの夕日は詩的なものが感じられる。もし貴方の心に少しでも憂いがあるなら、賑わいの去った秋の日の夕刻、堤防を下って砂浜に降り立ってみてはどうだろうか。
一瞬、憂いの心を振り切って顔を上げれば、貴方から遠く、水平線の上を船が行く。
一般的に伊勢の(なぁ)言葉と言われ、(そうでしょう)を(そうやなぁ)と言うが、大紀町界隈では(みゃぁ)であり、(そうやみゃぁ)と使う。、更に志摩界隈になると(げ)になり、(そうやげ)となる。
概ね志摩市では山間部の集落は別にして、海岸部の住民の言葉には濁音の付くものが多い。少しばかり列挙すれば、「ああやげ、こうやげ、ああじゃら、こうじぁら、あじゃ、あじょら、なんじゃてて、ええじゃんか、はざんてや、あばばい、ずんどろべ、ごんたろ、びちゃける、おれげ、のおげ、ぐんそたんご、おぞげ、かざ、ぼぼし」等々。
現在はほとんど耳にしないが、かつて熊野灘沿岸では、、広く使用された言葉である。文字で表せばさほどでもない言葉も、土地の古老に語らせれば絶妙なイントネーションと身ぶりとが相まって、意味不明・抱腹絶倒なのである。
その一つに、(泉・神津佐は烏も鳴かん。飯満8軒、寺添えて9軒、今は栄えて13軒)というのがある。これはその地区を小馬鹿にした言葉であろうという話をしていたら、志摩地方の民俗・歴史に詳しい古老が、「それはあなたの差別意識からの解釈ではないのか」 と指摘されたことがある。古老曰く、「泉・神津佐・飯満は、古来より農作物や海産物等が豊富で、烏も常に満腹状態にあり、大木の梢で、終日うつらうつらしながら欠伸ばかりしていて、カァーカァ-とは鳴かんのだよ」とか。一度烏の欠伸を見に行こうと考えている。
祭りの楽しみの一つに口上がある。しかし最近は全く物売りの向上を耳にしなくなった。一昔前までは、瀬戸物・やけどの薬・芋飴・ガマの油・ハブの塗り薬・万年筆等々。買う気が無くても、売り手の向上に引き込まれて、いつの間にか買わされている。その見事なまでの口上が懐かしい昨今である。
志摩市でも年間を通して、様々な祭りや催事があり、多くの物売りの出店で賑わってはいるものの、ただ観に来る、ただ売るだけのものでしかない、というのは残念である。
一つ眼の大入道の話である。海からやって来て、波切界隈の集落で大暴れをするのため、大きな草鞋を作って海に流し、大入道を威嚇したのだと伝えられる。現在、この一つ眼の大入道は、台風のことであるとするのが定説ようであるが、果たしてそうなのだろうか。
日本の神話の中に、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が登場する。一つ眼で、鍛冶屋の祖神なのだが、「貴種流離」・「天之石楠船神」等の話から考えると、この神話の世界にこそ真意が秘められているように思える。祭りといえども、時代と共に変化してきたのだろう。
太鼓の打ち手と、太鼓の胴を細い棒で叩いて拍子をとる者との、二人一組での演技である。一説に、高揚・戦闘・歓喜の三部からなり、現在残っているのは、終わりの歓喜の部分だけであるといわれている。両膝を曲げ、腰を落とし、半身になって叩くのであるが、大勢で幾つもの太鼓を叩くものとは異なって、叩き手の身体の流れやバチ捌きなど、芸術性が問われる特異な太鼓である。稀に両面を叩くこともあるが、よほどの手練同士でないと、視覚的にも体感的にも、周囲をも巻き込んで、時間と一体化した絵にはならない。
職種にもよるが、、少なくとも4・5年は親方の下で修業して独立するのであるが、修業期間よりも、寧ろ独立してからの方が大変なのである。現代社会のように流行り廃りの激しい時代にあっては、色・味・デザイン・素材等々、既に職人という個人的努力では対処できないところまで来ている。飾職人だけの世界に限定しても、正確に製品を創り上げる技術だけではなく、新しいデザイン力や、ビジネスセンスが必要とされている。しかし職人は、依然として変わることなく、昭和の中で同じことを繰り返しているのである。
志摩半島でこの一つという眺望を上げるなら、間違いなく横山からの風景であろう。しかし良いからと言って、全てが満たされているわけではない。近からず遠からず、絶景なのであるが、不思議と旅情を感じさせない。もし旅に来られて、ある日・ある時、この一つをと言われるなら、間崎島の港近くからの夕景であろうか。他にも絶景スポットは数多くあるが、一様にして、旅情も郷愁も追憶すらも呼び覚ますことの難しい何かがある。
異論もあるだろうが、本来この志摩半島は、ことほど左様に明るい土地柄なのである
(あだこ)地名であるが、普通これは読めない。昔まだ自然が豊かであった頃、蛸が海から田の畔まで上がってきたことから、この地名が付いたといわれる。都会から移り住んだ人や、山間部の人は「そんな大げさな」と言って信じようとはしないが、恐らく本当のことであったと思う。昭和の30年代の頃、岩場の潮だまりにいた蛸が、海水が温かくなりすぎて、海へ戻る途中、熱い岩の上で足をくねらせて、蛸踊りのような格好をしているのを見かけたことがある。この話も、未だ誰にも信じてもらえないが、本当の話である。
蛸に纏わる話が志摩には数多くある。昔、まだ土葬であった頃、棺を埋めた上に土を盛り上げ、野犬などが荒らさないように割った竹を半円形に突き刺し、更にそ上を網で覆って墓を守った。しかし海岸沿いの集落ででは、野犬ではなく大蛸が海からやって来て墓を荒らすため、その防御策として竹を使ったのだということを、海の近くにある寺の住職から聴かされたことがある。すべからく自然が調和にあるとするなら、事の真意は別にして、案外、火葬が普及するに従って、死者を喰っていた大蛸も滅びていったのかもしれない。
古い言葉で、「あじゃ何じゃてて、ああじゃらこうじゃら言うたてて、ぼぼしのくせしてはざんてや、ぐんそたんご被ってずべっとれの」志摩地方の人以外には分かってもらえないと思う。意味は「お前な、何というか、ああだこうだと言ってみたところで、色事に狂って良くないぞ。肥桶被って腐ってしまいな」というような意味合いか。
なかなか手厳しい言い回しであるが、微妙な間と抑揚があり、然程感情に突き刺さるものではない。寧ろ現在使われている言葉の方が、とげとげしく人の感情を傷つける
一昔前までは、盆踊りといえば寺の境内で、というのが案外と多かった。盆踊りを観ながら、寺の堂内から聞こえてくる御詠歌やリンの音には、身体の奥にまで響いてくる哀調が感じられたものである。しかし最近はジャズやロック音楽での踊りや、よさこいソーランまで飛び出してくる地区がある。悪いとは思わないが、御先祖様の霊も、久し振りに我が家へ帰って、しみじみと感慨に耽るという訳にはいかない。此の世の夢は何時も夢の中。
明治ばかりか、昭和もお富さんも大八車も、今となっては記憶の彼方の話なのである。
なまこ・さつま芋等を一旦炊いてから天日干しにしたものの総称であるが、今では一般的にさつま芋の干したものだけを言う。大きいものは半分、若しくは四分の一にカットする。地域によっては餅のように臼でついてから、四角や俵型にして干した。この場合、麦芽を使う地域と使わない地域とがあり、味は其々の家によって微妙に異なる。
昔使われたものと現在使われている芋とでは、さつま芋の種類が違うものの、味は素朴の一語に尽きる。誰にとっても懐かしくはあるものの、決して絶品というものではない。
先年、従兄弟から大きなスッポンを貰った。ウナギなら何とか捌くことは出来るが、スッポンとなると、その首を落とすのに躊躇いが生じる。そんな訳で一年余り飼っているのだが、頭が良いのか慣れたのか、水面から首を出して、まん丸い目でこちらの様子を窺う。まだ手渡しとまではいかないものの、餌を持っていくと首を出して近付いてくる。
こうなると、もう食えない。ポンちゃんの名前をつけたが、飼い主に似て、幾らか肥満傾向にある。しかし、俺が料理するという奴が出てこない限り、当分の間は安泰である。
フランスの詩人による(秋の陽の如く 夕陽の如く 束の間は優しさたれ)とは「秋」の一節である。夕陽には、その美しさの中に、名状し難い憂いが潜んでいると感じるのは私ばかりではないようだ。もし車で行って珈琲をというなら、志摩観光ホテルの二階にあるラウンジをお勧めしたい。それも秋の夕陽が観られる時間帯が良い。遥か山並みの彼方から、真っ赤な光が飛び込んでくる。テーブルの上には珈琲。私も風景の一つとしてある。
光と沈黙と珈琲の香り、そして沈黙。「孤」の私を中心にして、至上の時が流れていく。
志摩観光ホテルでゴブラン織りを展示販売していた女性との話の中、コクトーのカンヌ5番が出てきた。若い世代には馴染みのない詩であるが、団塊の世代で読書好きな人なら、誰でもが一度は出合ったことのある詩である。人は自らの人生の歩みの途上、様々な音を心に刻んでいくものである。裸足で踏みしめた砂の音、境内に落ちる椎の実の音、松林を吹き抜けていく風の音等。幾度も聞いているのであるが、あの日のあの時の音が、折に触れて何故か甦って来る。5番は、たった一行(私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ)と詠う。
東尋坊・材木岩等色々な名称で観光スポットになっているが、何れも柱状節理による岩壁である。火山列島の日本にあっては然程珍しくはないが、熊野にある海金剛は些かそのスケールが違う。海面から見上げるということもあるが、圧倒的な威容を誇る。そもそも熊野界隈に点在する観光スポットは、熊野大社・那智の滝・七里御浜・海金剛等、その多くが特大サイズなのである。近くまで車で行けるが、海金剛だけは観光船か地元の船をチャーターしないと行けない。熊野には南方熊楠の世界が、昔のまま今も広がっている。
志摩半島にも美しい白砂の海岸が幾つもある。国府の白浜・阿津里浜・御座の白浜・南張海岸など、他にもたくさんあるが、個人的見解として、その何れもが人工的な俗っぽさを感じさせる。全国に隠れた秘湯があり、密かに出掛けて行って、一人で楽しんでいる人があるように、私だけの砂浜というのを見つけてみてはどうだろうか。車の速度のなかでは気付かないが、ほんの少し歩けば、案外近くに然程大きくはないが、私の「孤」を感動させてくれる砂浜がある筈だ。ある日の夕刻、磯笛峠を見上げながらの思いである。
昭和の30年代までは、志摩でも結構蕎麦が作られていたように記憶しているが、最近は車を走らせていても、ほとんど蕎麦の花を見掛けない。そんなこともあってか、蕎麦の専門店も少ない。ラーメン・うどん・パスタ等にこだわりを持っている御仁には出会うが、蕎麦に関しては稀である。もともとこの志摩地方に於いて、蕎麦は空腹を満たすためのものであって、究極の蕎麦談議に花を咲かせるほどの文化にまで発展しなかったのであろう。
ちなみに、蕎麦は(食いに行く)のではなく、手繰る。蕎麦を(たぐりに行く)のである。
志摩地方の一部では、寝た振りをするのを(すら寝)という。まだ私が幼かった頃、母親から言われた用事がしたくなくて、すら寝をしていると、必ず看破られた。何故か分からないまま、同じことを繰り返したが、結果は同じであった。そんなある日、うつらうつらしながら眼を開けると、口を少し開いた顔が鏡に映っていた。ははん、これだと思って、それからは口を少し開いてすら寝をするようにした。それから暫くの間は母親を騙せたが、それも直に見破られた。母親の子を観る眼差しの確かさには、形を超えた何かがある
ほいととは乞食のことである。(ほいともヤクザも人の子、分け隔てをするな)というのが母親の信条であった。しかしそう額面通りにはいかないのが人間である。小さな集落の中で、優越感や差別を果てしなく繰り返し、命果てるまで止めようとはしない。都会を離れて、田舎暮らしなどと考えない方がいいのかもしれない。田圃の蛙が喧しいように、集落に代々住みつく雀の嘴の煩いことこの上ない。釈迦の教えから2500年、人は何処へ行こうとしているのか。そして分け隔てが消える時、集落はまだ残っているのだろうか。
畑の畝のように、うねうねと連なっているから、うねりなのだという説がある。波切の港を出て、暫く沖に向かうと、真っ黒な潮の流れ、黒潮に到達する。その名の如く、真っ黒な色をしている。海岸に打ち寄せる波とは異なって、長いものでは数百メートルも長さに及ぶものもある。好く晴れた日、船上から海中を覗き込むと、光と共に海中へ引き込まれそうな幻覚に襲われる。うねりの谷に船が下がると、眼前には真っ黒な壁が迫って来る。
畝が先か、うねりが先か。何れにせよ此の世界に始めからあるのは、うねりの筈なのだが。
瀬戸内海のフェリーで酔い、伊良子鳥羽間のフェリーで酔い、サンフラワーで酔い、熊野灘での魚釣りで酔い、船の上では全く様にならない。そもそも左右に揺れながら上下にも揺れるという、あの奇妙な感覚は、私にとって如何とも受け入れ難いものである。仲間は「女にも酔って大変だ」と言うが、それは船酔いのような悪酔いではない。しかしよくよく考えれば、自らの魂が消滅してしまったようなことがあったことを思えば、或いはそれも悪酔いなのかもしれない。事の是非はともかく、遠い日の懐かしい記憶の断片である。
昔は断崖絶壁の中間あたりに、細く曲がった道が通されていた。今はトンネルが出来て、行き交いは随分楽に成ったが、旧道は現在も車で走れる。その中ほどには小さな公園に整備されており、ツバスの鐘と展望台が設置されている。センサーが作動して、何処からか磯笛が聴こえてくるようになっているが、幾らかしつっこさを感じさせる。
遠い日、母はこの峠道を越えて行き、そしてこの峠道を私と帰ってきた。その日から60年余りの歳月が流れ、母の思いも私の記憶も、何もかもが潮騒と共に消えていった。
志摩半島の先端近くに、大山玉宝美術館がある。展示物の中には、130年余の歳月をかけて作られたといわれる香炉、龍鳳大薫(高さ92,7センチ・重量30キロ余)がある。清代の皇帝のものであったが、人類が到達した細密工芸の極致と言える。厳然として輝きを放つ様は、他の追随を一切許さない威厳と気品に包まれている。
鳥居の向こうの存在に、合掌して何かを期待するのもいいが、一度この美術館を訪ねてみては如何だろうか。恐らく至宝の真の意味と、芸術の果てしない可能性を感じる筈だ。
鳥羽市と志摩市の境に、青峯山・正福寺がある。昔、志州の国には過ぎたるもの、と言われていた、その一つがこの正福寺の山門なのである。建立された当時には、美しい彩色が施されていたのであろうが、今は剥離して木地がむき出しのままである。どっしりとした木組みに、繊細な彫刻が施され、往時の隆盛が偲ばれる。その山門をくぐって境内に立てば、樹齢数百年の杉木立が、静謐な沈黙の時間へと「私」を誘う。名刹のわりには訪れる人も少なく、仕事で忙殺され、忘れていた「私」の時間を取り戻せるかもしれない。
浜島町南張。(南張メロン)で有名であるが、この地区に楠神社がある。この神社に祀られている神様は、古くから子授けの神様として、近郷近在の人に信仰されてきた。社殿は小さく、のたくり込んだら向こう側という感があるものの、その御利益は絶大で、子供の出来なかった多くの夫婦の願いを叶えてきた。この神様に子が授かるように願い事をして出来た子には、そのお礼として(楠)の一字をいただいて名前を付けるのが習わしである。
もし子供が出来なくて悩んでいるお二人がいるなら、お参りしてみては如何だろうか。
志摩一円の神社・寺・山をくまなく歩いて、巨木の調査をしたことがある。残念ながら志摩には、感動するほどまでの巨木はない。楠の木のように根元が異常に太いものを除けば、眼通し4メートル余である。幾つかを上げれば「伊雑の宮の楠の木と杉、鵜方・棲鳳寺裏山の楠の木、御座・潮音寺の前の松の木、御座神社の椎の木」と言ったところであろうか。そんな中、あえてこの一本をと言うなら、布施田・薬師禅寺境内の松。胴回り2メートル余で、巨木・古木の類ではないものの、手入れの行き届いた名木と言える。
御座白浜の近くに、波によって削り取られ、剥き出しになった地層褶曲の観られるところがある。三重県の自然文化財には指定されていないが、野見坂の地層褶曲とは異なり、手に触れることもできる。しかも露出している部分は、野見坂のものより遥かに大きいと思う。志摩市内の人にもほとんど知られていないし、地元御座の住人達も、それが極めて稀なものであり、重要なものであることに気付いていないのではないだろうか。もっとも、人一人ひとりの人生の褶曲を思えば、大地の歪みなど然程驚くほどのものでもないか。
松林を吹き抜けていく風には、追憶を誘うえもいえぬ趣がある。以前国府の白浜一帯は、松の大木で覆われていたという。戦時中、軍の命令で全て切り倒されてしまったのだと、土地の古老に教えてもらった。現存すれば絶好の観光スポットになったであろうが、その当時切られなかった他の地域の松の大木も、台風による倒木や松喰い虫によって枯れてしまい、胴回り4メートル余のものは、潮音寺前にある一本を残すのみである。海岸に古松のある風景。その風景に趣が無くなったのは、古松が消えたせいばかりではないのだが。
志摩市は水平線の街である。眼前一面海と空で成す水平線ではなく、左右の岬の間から観える、いわば手のひらサイズの水平線が良いのだ。小高い丘の上から、或いは小さな砂浜を歩きながら、自らもその風景の一つとなって、暫し心遊ばせてみたらいかがだろうか。目まぐるしく移り変わっていく日や時代の中にあって、ただ(観た)(食った)という観光ではなく、ほんの片時、日常的思考から離れ、「私」を解き放ち、自らが風景の一部として逍遥するのも良いのではないか。潮騒と追憶と人生の旅は、砂に残された足跡の中にもある。
キーウイの木が一本ある。毎年900個余りの実を付ける。収穫はするが、自分が食べるのは1,2個で、ほとんど知人や友人に配ってしまう。それと言うのも、何時まで経っても同じ色をしていて、食べる頃合いが難しく、つい腐らせてしまう。それならいっそのこと、と言う次第なのだが、要は食べ頃を確認してというのが面倒くさいからなのである。今年は剪定し過ぎたのと春の嵐、それに烏の被害とで300個程度であるが、実は大きい。
何事にもタイミングがある。不思議なことに、毎年収穫した時にやって来る知人がいる。
昔は餅つきに使う臼は、松の木か欅の大木で拵えてあった。しかし杵の頭は何故か柿の木のものが多かったように記憶する。何か理由があるのだろうが、私は知らない。ちなみに、金槌と鑿の柄は柊、鋸の柄と太鼓のバチは桐、すりこぎの棒はサンショ、櫛と根付は黄楊。しかし何が何でもという訳ではなく、その状況によっては別のものを使ってきた。げに墓に供える枝はしきびだけではなく、椿や椎の枝を供える地域が今でもある。
人はこだわりながらも、成すことは自在。融通無碍というより、要は適当なのである。
もがり笛のように、どんな話にも(うんにゃ)と反対して、人の意見に頷こうとしない類の人のことを(もがり)言う。話を楽しむことのできない人種で、些かうんざりさせられる。話が続かないのだ。1から50までの数字の一か所が間違っていても、全体が理解できれば、何が言いたいのか充分話は通じる。人が何を話したいのか考えることもなく、部分的な指摘によって、話の全体を頓挫させてしまい、話が意味のない日常へと転げ落ちてしまう。年老いて、ゆっくり「私」の話をすることのできる友のある人は、それだけで幸いである。
(仏門に帰依する)というような使い方をするが、人は多くの矛盾の果てに、御仏の下へと帰っていくのである。究極に於いて、自分という(私)を語ることのできる相手は、もう一人の私だけなのだと気付いた時、人は静かに「孤」の世界に頷き、全ての人から離れていくのである。私が私の時間の中で泰然自若としてある。要は他人の言葉や生き方に惑わされることなく、自らの生の領域を楽しみ、日々の時間と融合することを楽しみ、それを人生の終わりの日まで繋げていく。そんな人に痴呆や自殺の運命など、あり得よう筈もない。
追憶の中で青空が遠い。智恵子抄の一節に(安達太良山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子の本当の空だといふ)というのがある。歳のせいでもないのだが、昭和30年代までの青空の色が、今の青空には無い。そんなふうに何もかもが本来の色調を失って、この世界は滅びていくのだろうか。薄らぼんやりとした空の下、薄らぼんやりとした感情を抱いて人は行き交い、その生涯に於いて何も見出せないまま、この地上を去っていく定めであったとしても、せめてこの世界が終る時は、真っ青な青空であってほしいものだ。
志摩半島の一部では、ウナギと言えばウツボなのだという地域がある。このウツボ、全身の模様もさることながら、その凄まじい顔を見た暁には、およそこいつを喰うという発想を抱く人は少ないであろう。しかしその姿とは裏腹に、事の他美味いのである。一夜干しにしたものを、焼いても薄く衣をまぶして唐揚げにしてもいい。ただ尻尾に近付くにしたがって骨が多くなり、薄く刻まないと食べられない。オコゼもそうだが、一見姿の悪いものに美味いものが多い。ただ気の狂れた田舎のサルは如何ともし難く、食指は動かない。
人の顔の全ての皮膚が震えているのを一度見たことがある。およそ修羅の形相でも、これ程までに凄まじいものではないだろうと思える形相であった。哀れでもあったが、可笑しくもあったと感じたのは、私ばかりではなかった筈だ。代々に流れる業の血が成せる故のことか、それとも憎しみか。何れにせよこの地上を去っていく時、同じ顔を子供達に残していくであろう。一度表に現れたものは、病であれ、気狂いであれ、子孫に受け継がれていくものである。歎異抄に言う(善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや)と。
線香の匂いのする洋梨をくれた人がいる。匂いには鈍感なのだが、食い物のこととなると話は別。要は食い意地が張っているとでも言おうか、その物が今までどのような状態にあったのか分かるのだ。今となっては遠い日の話になってしまうが、知人から洋梨をいただいたことがある。スーパーマーケット等で売られているものと比較すると、正に似而非なるもの、大きさ・形・香り、絶品なのである。それ以来、果物を人にあげる時は気を付けるようにしている。その知人とも10年余り会っていない。元気にしているのだろうか。
物忘れがひどくなった。仕事のことは極力メモをするようにしているが、それ以外の事柄は、自分でも感心するほど見事に忘れる。痴呆か悟りか、自己診断は悟りとしている。事の真意はともかくとして、今までは客と話をしながら、或いはラジオを聴きながらでも充分に仕事が出来た。しかし、今はそのどちらか片方しかできない。思えば、一昔前までは痴呆症の老人等、一つの地区に一人居るか居ないかの程度であったことを思うと、随分と人の心も荒廃したものだ。現代社会には、ごく当たり前に有った安堵感が喪失している。
子供達も成長して家を出て行き、老いた自分達二人の世界。しかしそこには若い時のような体力も、重ねてきた歳月を語るべき言葉もない。そんな二人の前に、厳然と姿を現すのは孤独である。二人で紡ぎあげてきた時間には、果たして何の意味があったのか、そして(私)は一体誰なのか。沈黙と孤独に支配された中にあって、珈琲カップから立つ湯気も線香の煙にも大差なく、眼の前にいる相手も、永遠に遠い幻視の風景でしかない。私の住むべき世界はこんな世界ではなかった筈。(私)を捨てて、私は忘却の世界へと旅立っていく。
料理と調理、料理人と調理師。この違いはどこにあるのだろうか。レシピ通りに拵えてみても、それらしき物、いわゆる(もどき)なのである。決して不味くはないが、何かが違う、何かが足りないのだ。個性の時代と言われる現代社会にあって、様々な人に出会い意気投合し、或いは衝突を繰り返す。皆其々に(その人)なのだが、構えて「個性」に思いを馳せる時、それは個性ではなく「我」だけの塊であり、背景が見えてこないのである。恐らく料理も同じことで、そこに個性が加味されていない限り、感動の微塵すら感じさせない。
自らの生の終わりを如何に結ぶのか、難しい問題である。しかし多くの人は、いずれ死ぬ時がやって来るとは思っていても、まだ先のことであると思っている。だが死は常に間近にあることを忘れてはならない。肉体の死があるように、精神の死もあるのだ。近年インフルエンザの如く増え続けている痴呆等は、まさに精神の自殺なのだと言わざるをえない。何故それほどまでにして、虚しい時間を背負って肉体だけ生き続けなければならないのだろうか。生きてきた一切の記憶から離れ、自らという(私)すらも失われてしまっている。
中国の奇書である。そこに書かれている魚は(手や足があり深い森に住んでいる)とある。さながらSF映画やコミック漫画に登場してくる地球外生命体ではなか。しかもそんな話が延々と綴られているのであるが、日本にも百鬼夜行の話に出てくる鬼や化け物の姿は、それに負けず劣らず奇怪である。現代の人々に失われているのは、そういったモノを生みだす想像力であり、それを楽しむ精神のゆとりなである。しかるに何を間違えたのか、自らが百鬼夜行の仲間に成り果ててしまっている。今夜もどんな顔をして散歩するのだろうか。
相可高校の近くに、フウの大木がある。この木の樹液を漢方では薬として用いたとあるが、秋にはイチョウの黄色ともカエデの紅とも違う、独特の色合いをした黄葉が楽しめる。相可は旧伊勢・熊野街道の要衝の地にあり、界隈には古寺や旧家が残されており、往時の繁栄の面影を今にとどめている。国道(42)以外の道は幾らか狭いが、新旧の家屋が風情のある町並みを醸し出している。しかも鮎の甘露煮・お餅・みたらし団子・和菓子等、グルメには堪らない土地でもある。伝統に裏打ちされた(本物)がある町というのがいい。
相可から櫛田川に沿って、旧道を辿って上流へ向かうと、丹生の大師(丹生山・神宮寺)がある。弘法大師が、自らの姿を彫ったといわれる像が祀られているお寺であるが、その境内に祈願の杉がある。驚嘆するほどの大木ではないものの、何かしら無尽蔵なまでの言葉を内包しながら、それでも沈黙しているような、そんな思いを抱かせる不思議さがある。〈生まれ来て独り、旅にあって独り、去っていく時も独り〉とでも言いたいのか、大師堂と祈願の杉との間の石段中程で、いつの時代も上るべきか下るべきか「私」は迷っている。
神宮寺の境内に珍しい形の六地蔵堂がある。円形の石柱の上に、六角形の御堂が載っかっているという、まさに案山子のような様なのである。しかし小さいとはいえ、細部にまで手の込んだ造作がなされており、建築物としては一級品である。多くの人は直ぐ隣にある大師像や石仏〈六地蔵〉の前で合掌するが、近付くと幾らか見上げる高さに位置するせいもあってか、一瞥する程度である。柱以外、御堂の全体は六角形になっており、中空に浮かんでいるように見えなくもない。地蔵菩薩は何時もお堂の中におられるのだろうか。
大木。それは其処にあるというだけで様になるかと言えば、必ずしもそうだとは言えない。やはりその樹の姿と、周囲の環境とも相まってこそ、一幅の絵になる。丸森町〈宮城県〉に、一度観たら忘れることのできない大イチョウがある。道路から田圃を隔て、山を背景とするが、黄葉するとイチョウの樹そのものが山のように感じられる。それにもまして、極めて立ち姿のいい大木である。個人的な見解であるが、寺の境内や墓地、神社や城などにある樹には感動しない。長い歳月を旅してきて、まだ途上なのだという感じがいい。
志摩市内に、その樹に触ると眼の病を患い失明すると言われている樹がある。樹種は分からないが、常緑の広葉樹である。民家の敷地内にあり、道路と接している。伐ろうとする者や、伐った者に祟りがあったという話は全国津々浦々にあり、頷く程度のことで気にも留めないが、触るだけで眼に祟りがあるという樹は珍しい。一度だけ見たことがあるが、その謂れの所為か、土地の人は道路に落ちている枯れ枝にさえ触れようとしない。案外、樹も人も家も触れることはおろか、関わりを持たない方が賢明な場合があることは確かだ。
大きな街にあっては、その一族が一か所に住んでいるということは稀であり、判断しにくいが、こと田舎となると、一つの家の血脈を辿ることは簡単である。その親戚について根掘り葉掘りするよりも、病について聞くと、いとも容易く結び付いていくのである。ある種の病は、環境よりも寧ろ血脈によるものがある。憎しみを抱いている者の眼が、常に卑屈であるように、当事者には分からないであろうが、同じ病の臭いがするのである。その臭いは言葉に変わり、何か一言いわなければ気が済まない病の種子として受け継がれる。
風もないのに、何となく揺すれているように見えるので〈ゆすれの木〉とも言うらしいが、根幹部分が虫害で腐り、根元が安定しないために、少し強い風が吹くと倒れることがある。何となく人の生き様を現しているようで、捉え方によっては無常の漂う木である。開花期間は長く、まだ咲いているという思いにさせるが、ふと気が付くと、既に終わっている。宛ら絶頂期の人と同じで、他人は羨望の眼差しで見詰めるものの、或る日、ふと気が付くと倒産していたり、病を得て既に亡くなっていたりする。やはり無常の木なのだ。
志摩半島には彫刻のできるような硬質な石材は無い。そんな中、古くから大王町波切地区に、高度な石工職人の技術が受け継がれてきている。しかし志摩では、その芸術的な石積を見掛けることは少なく、他所の土地でしか見ることが出来ない。単価の問題であろうが、ありふれた間知石による石垣の連続というのも味気ない。500年はおろか、1000年の未来に残るような石積を残していくのも行政の文化的知力ではないだろうか。どのような領域であろうとも、時間と金を惜しんだものから、普遍性を見出すことは出来ない。
志摩地方の方言でサルトリイバラのことである。ずんどろべ・ごんたろ等、様々な言い方をするものの、方言の方がそのものをリアルに言い表しているように思えることがある。要は柏餅に使う柏の葉の代用として使ったのであるが、今ではイバラ餅として一般的になっている。ただ如何に方言の方が味わい深いとはいえ、ずんどろべ餅では、さすがに甘党の私でも食指は動かない。もともとはメリケン粉の生地で餡子を包み、更にその表面をイバラの葉で包んで蒸しただけのもので、およそ餅菓子と言えるような代物ではなかった。
法珠山・立石寺。登り口の受付で手荷物を預かってもらい、二日酔いで頭の芯がズキズキするなか、雪で凍った石段を上まで登ったことがある。降り積もった雪のせいもあってか、ほとんど訪れる人もなく、納経堂・五大堂への雪道には難儀した。多くの堂塔伽藍は雪に包まれ、芭蕉の句の世界よりも更に深い沈黙の世界が其処にあった。しかし登りにもまして更に大変なのが、凍った石段を下る時で、俯けば頭が痛むし、顔を上げれば滑るし、結局上りの倍以上の時間がかかった。何事も季節外れには好さもあるが、概ね難儀する。
秋。陽も傾きかけた頃、「ふたり」に出合った。ベンチに若い女性二人が、背を向けて反対向きに腰掛けているブロンズ像である。仏像ほど興味は無いが、この「ふたり」の彫刻は何故か記憶に残っている。全く反対の方向を向いていて、それでいて調和が保たれているのだ。もう少し設置場所に配慮すればと感じたが、余計なお世話か。近くに茶屋があって、初めてずんだ餅を食べた。粗く潰した枝豆に味付けをして、搗きたての餅の上にかけてあるというだけの物で、餅と枝豆がよそよそしく、しかし「ふたり」のようでもあった。
人には病強い人と、病弱い人とがある。生死の境を彷徨うような病気をしても、退院した翌日からダンプカーを乗り回したり、船に乗って沖合遠くトローリングに出掛けたりする人がいる一方、つい最近まで元気に仕事をしていた人が、風邪をこじらせて呆気なく逝ってしまうこともある。日本本命真珠協会の会長である「松尾昌男」氏。並みの人なら健康管理に明け暮れ、楽隠居といったところであるが、稀にみるタフガイである。口を開けば弁解と昔の自慢話しかしない諸氏とは一線を画する。達観による無欲故の行動力なのか。
二本の樹が根元、あるいは枝によって合体している様のもので、古くから男女の不思議な縁と重ね合わせてきた。「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」と白居易は詠ったが、現代は一方的な思い込みによるストーカーの時代である。余談はともかくとして、相可の両郡橋の近くに連理の枝を成す樹がある。しかも三ヶ所も繋がっている極めて珍しいものである。上段の二ヵ所はかつらの類が絡まっているのと、高い位置にあるため確かではないが、樹と樹のこととはいえ、凄まじい執念のようなものを感じる。
仙台駅から車で1時間程の所に、極楽山・西方寺がある。堂塔伽藍は無料で拝観できるが、五重塔へは入堂できない。関西ではあまり知られていないものの、一生に一度の大願を叶えてくれるということもあって、多くの参拝者で賑わっている。山門の彫刻は、彩色された東照宮のようなきらびやかさは無いが、見事の一語に尽きる。然程広くはない門前の道路両側には、様々なお店が軒を連ね、蕎麦・油揚げ・豆腐・ゆべし・こけし等の名物や土産物が売られている。一度、大願を叶えてもらいに車を走らせてみたら如何だろうか。
日本棚田百選の一つに、深野の棚田がある。全体で三百万個以上の石が使用されていて、観る位置によっては、まさに石の壁である。概ね人家は棚田より上にあり、寺の近くにある駐車場まで車で行ける。もし行かれるのであれば、一つ奮起して、下から上っていくのをお勧めする。ただ極めて急峻な坂道で、ヒールの高い靴で上り切るのは難しいように思う。昨今、様々な地区で村興しや街づくりをしているが、この地区の棚田の石積を一見すれば、小手先の街づくりや賑わい等、木っ端微塵に吹っ飛んでしまうことに気付く筈だ。
金峯山寺の搭頭の一つに脳天大神社(龍王院)がある。本堂近くの石段を下っていくのであるが、此の石段、気を抜くと転がり落ちてしまいそうなほどの急こう配である。首から上のことについての願い事を叶えてくれるということで、最近はボケ封じのお願いにお参りする人もいるとか。私も急速に砂漠化してきた頭の毛が、僅かなりとも何とかならないかと、頭を水に打たれてきた。酒・煙草等、身体に悪い日々を重ねて、今さら頭の毛の願い事など身勝手か。しかしボケたくないなら、脳天大神の御力を信じても良いのではないか。
目の神様が祀られている。他の神社と異なって社殿は無い。石垣にくぼみを拵えて祀ってあるというだけの、極めて簡素なものである。しかし古代の人々が巨岩や大木に畏怖の念を抱き、崇めてきたことを思えば、それで良いのかもしれない。況してや現代のように、徒に絢爛豪華な社殿を構え、「どうだ」と言わんばかりの神社の神様と比べ、案外大きな御利益があるのかもしれない。日本の神話では、イザナギの左目から天照大神、右目から月読の命が誕生したとある。親を蔑にする風潮がある現代社会、親神を忘れてはならない。
女性の願い事を叶えてくれるということで、最近人気のある神明神社の境内に、(石神さん)が祀られている。パワースポットブームと相まって、若い女性にはなかなかの人気である。その神社への登り口にある駐車場横に、昇龍の松がある。参拝客の多くは気にも留めないで神社へ向かうが、手入れの行き届いた立派な古松である。石垣の向こうにあることから、梵潮寺域内のものであろうかと思える。何れにせよ、外海に近いところで、これ程の古松の大木が守られていることは珍しい。この梵潮寺には、樹齢700年の蘇鉄もある。
松林を吹き抜けていく風には、ある種独特の風情がある。古の神々の語らいか、逝った人々の声無き声か。我が家の界隈にも以前は太い松の木が数多くあり、幾らか強い風が吹くと、その音を聞きながら物思いに耽る楽しみがあった。しかし近年、松くい虫による被害で多くの松が枯れてしまった。この事は志摩半島全体についても言えることで、風情ばかりか、風景そのものにも味わいが無くなったように思える。東北を旅した時に、田沢湖に立ち寄ったことがあるが、湖畔の赤松林を吹き渡る風の、何と旅愁を感じさせたことか。
旧街道沿いでは、思わぬところで石仏に出合うことがある。そんな中でも妙に気になるる石仏がある。正確に言えば、石ではなくセメントで拵えてある仏である。三体あることから、釈迦三尊のつもりなのであろうと思えるが、そのお顔は何ともいやはやと言う感じで、なかなか味わいがある。幾度かカメラのシャッターを切ろうとしたものの、周囲の雑草が虎刈りで、絵にならないのである。刈るなら刈るできちんと刈るか、さもなければ草むしたままのほがいい。それなら自分が刈りに来いと言われれば、まさに身も蓋もない。
あそこのウナギと言う話になると、九州であろうが東北であろうが、それなら今から行こうとと言う知人がいる。話だけではなく実際に行くのであるが、その付き合いは大変なのである。名古屋のホテルで食事をしながら、ウナギの話になって、それならば今から直ぐにと言うことでホテルをキャンセル、福岡にある某ウナギ店へ車を走らせることになった。確かに焼きも味も良く、関西風・関東風の両方を兼ね備えた絶品なのである。しかし私はそこまでウナギにはこだわらない。桜花の下、紅葉の川原での、その一杯を好むのだ。
ウナギ好きの知人の御蔭もあって、旅に出かければ必ずウナギ店へ入る。その土地その土地の味があって、甲乙つけ難いものがある。食べ合わせに(ウナギと梅干し)と言うのがあるが、梅干しが付いてくるところもあれば、明太子・ウナギの粕漬け・干し柿等、様々である。先日、仕事で大宮町へ出かけたとき、一見したところ余り見栄えのしないウナギ店へ入った。しまった、気の迷いかとは思ったものの、注文して暫くするとウナギが出てきた。何と陶板の上に蒲焼がのっかっているではないか。味はともかく、その心意気は良い。
過日、小ざっぱりとした料理店の主人が、面白いたとえ話をしてくれた。あれやこれやの話の中で(それでも、昔も今も沢山の御客があって、結構なことじゃないか)と言う仲間の話し掛けに、主人曰く(商売と出來物は大きくなると潰れる)とか。「商いと屏風は広げ過ぎると倒れる」の類なのだが、出來物とは恐れ入った。誰しも潰すために事業を拡大するのではないものの、結果的には広げ過ぎて失敗する。つらつら思うに、多くの場合、異性問題を除けば友人と親戚が足を引っ張るのが常である。こと商売に関しては疫病神なのだ。
寺の対岸の岩壁に大きな磨崖仏を観ることが出来る。余り輪郭がはっきりしない部分もあるので、カメラの望遠で覗いてみたが、やはりはっきりしない。臼杵の磨崖仏のような立体的なものではなく、壁面に沿って線彫りで現したものである。ぼんやりしたところがあるだけに、いま現れたのか、いまから去っていくのか、そのどちらとも捉えることが出来る不思議な感じにさせてくれる。振り返れば、私自身、いま此処に、本当に存在するのか否かの確信は持てない。人はこの世界へやって来てブツブツ、去る時までブツブツ。