うどん(多気町)

 三重県の饂飩では圧倒的に(伊勢うどん)が有名であるが、料理されたうどんの味は別の問題として、讃岐や安城等の饂飩と比較すると、「コシ」の強さや、饂飩そのものの食感等は曖昧である。今まで三重県に(うどん)は無いものだと思っていたが、然にあらず。

 先日、ドライブの帰り道(名物・片野うどん)の看板があったので車を止め、饂飩と蕎麦を買い求めてきた。うどん好きの諸氏には様々な意見があろうかと思うが、其処に(うどん)があった。田園風景の広がる中にある小さな集落。案外間近にある多くの(何か)を観落としているのかもしれない。そんな思いを抱かせる饂飩と蕎麦でした。

間崎島(志摩市)

 真珠養殖業が衰退してからは、余り人の訪れることのない過疎の島である。真珠養殖で栄えた島であるが、今は見る影も無い。

 港界隈に集落が密集してあり、後はそれぞれの入り江に作業小屋が点在するだけで、島全体の多くの土地は手付かずの自然が残されている。椎の木の大木で覆われ、谷が原始其のままで残されているようなところもあり、島の地形による特異な植生を感じさせる。

 それにもまして、島やその周辺から望む景観は絶景の一語に尽きる。観光地「伊勢志摩」にありながら、今はほとんど忘れ去られている忘却の島である。しかし其処には、神宮の神域で感じるものとは異なった、「私」の時間が流れている。

英虞湾

 大小様々な島を織りなし、静かな佇まいを見せる湾である。志摩市5町のうち4町に取り囲まれ、横山や登茂山の展望台からの眺望は絶景である。しかし多くの観光客に愛されながら、意外に知られていないのが、湾内からの風景である。賢島と和具から定期船、賢島からは遊覧船も出ているが、もし時間があるなら、地元の作業船をチャーターして、ゆっくり島巡りをしてみてはいかがだろうか。

 入り江から入江へと、終日舟で遊ぶ。「私」を決して退屈させない何かが其処にある。

爪切り不動尊

 志摩半島の先端に位置する御座に、弘法大師(空海)が大きな石に爪で彫ったと伝えられる不動明王が祀られている。秘仏中の秘仏、いわゆる絶対秘仏で、未だ誰もその姿を見たことが無いという。小ぢんまりとした谷間に幾つもの社があり、さながら箱庭のようである。日本三大不動尊に数えられているが、その規模は驚くほど小さい。しかしながら、(山は高きゆえに尊からず)の言葉もあるように、知る人は(霊験あらたかである)と言う。形骸化した大きな神社とは異なり、不動尊と相対して、いま自分が此処にいるという、「私」を実感できることは確かである。

 ただ日本三大不動尊は諸説あり定かではないが、江戸時代におけるお伊勢詣のコースの一つでもあったことを考えると、やはり霊験あらたかなのであろう。南無不動明王。

阿津里浜

 志摩半島の先端近く、外海に位置する。決して大きくはないが、緩やかな弧をえがいて、その中ほどに小島を一つ抱く、白く美しい砂浜である。夏の海水浴もいいが、四季を通じて風情のある浜辺であり、とりわけ好く晴れた日、波打ち際からの夕日は詩的なものが感じられる。もし貴方の心に少しでも憂いがあるなら、賑わいの去った秋の日の夕刻、堤防を下って砂浜に降り立ってみてはどうだろうか。

 一瞬、憂いの心を振り切って顔を上げれば、貴方から遠く、水平線の上を船が行く。

志摩の方言

 一般的に伊勢の(なぁ)言葉と言われ、(そうでしょう)を(そうやなぁ)と言うが、大紀町界隈では(みゃぁ)であり、(そうやみゃぁ)と使う。、更に志摩界隈になると(げ)になり、(そうやげ)となる。

 概ね志摩市では山間部の集落は別にして、海岸部の住民の言葉には濁音の付くものが多い。少しばかり列挙すれば、「ああやげ、こうやげ、ああじゃら、こうじぁら、あじゃ、あじょら、なんじゃてて、ええじゃんか、はざんてや、あばばい、ずんどろべ、ごんたろ、びちゃける、おれげ、のおげ、ぐんそたんご、おぞげ、かざ、ぼぼし」等々。

 現在はほとんど耳にしないが、かつて熊野灘沿岸では、、広く使用された言葉である。文字で表せばさほどでもない言葉も、土地の古老に語らせれば絶妙なイントネーションと身ぶりとが相まって、意味不明・抱腹絶倒なのである。

戯れ言葉

 その一つに、(泉・神津佐は烏も鳴かん。飯満8軒、寺添えて9軒、今は栄えて13軒)というのがある。これはその地区を小馬鹿にした言葉であろうという話をしていたら、志摩地方の民俗・歴史に詳しい古老が、「それはあなたの差別意識からの解釈ではないのか」 と指摘されたことがある。古老曰く、「泉・神津佐・飯満は、古来より農作物や海産物等が豊富で、烏も常に満腹状態にあり、大木の梢で、終日うつらうつらしながら欠伸ばかりしていて、カァーカァ-とは鳴かんのだよ」とか。一度烏の欠伸を見に行こうと考えている。

口上

 祭りの楽しみの一つに口上がある。しかし最近は全く物売りの向上を耳にしなくなった。一昔前までは、瀬戸物・やけどの薬・芋飴・ガマの油・ハブの塗り薬・万年筆等々。買う気が無くても、売り手の向上に引き込まれて、いつの間にか買わされている。その見事なまでの口上が懐かしい昨今である。

 志摩市でも年間を通して、様々な祭りや催事があり、多くの物売りの出店で賑わってはいるものの、ただ観に来る、ただ売るだけのものでしかない、というのは残念である。

わらじ祭りとダンダラボッチ

 一つ眼の大入道の話である。海からやって来て、波切界隈の集落で大暴れをするのため、大きな草鞋を作って海に流し、大入道を威嚇したのだと伝えられる。現在、この一つ眼の大入道は、台風のことであるとするのが定説ようであるが、果たしてそうなのだろうか。

 日本の神話の中に、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)が登場する。一つ眼で、鍛冶屋の祖神なのだが、「貴種流離」・「天之石楠船神」等の話から考えると、この神話の世界にこそ真意が秘められているように思える。祭りといえども、時代と共に変化してきたのだろう。

磯部太鼓

 太鼓の打ち手と、太鼓の胴を細い棒で叩いて拍子をとる者との、二人一組での演技である。一説に、高揚・戦闘・歓喜の三部からなり、現在残っているのは、終わりの歓喜の部分だけであるといわれている。両膝を曲げ、腰を落とし、半身になって叩くのであるが、大勢で幾つもの太鼓を叩くものとは異なって、叩き手の身体の流れやバチ捌きなど、芸術性が問われる特異な太鼓である。稀に両面を叩くこともあるが、よほどの手練同士でないと、視覚的にも体感的にも、周囲をも巻き込んで、時間と一体化した絵にはならない。

職人気質

 職種にもよるが、、少なくとも4・5年は親方の下で修業して独立するのであるが、修業期間よりも、寧ろ独立してからの方が大変なのである。現代社会のように流行り廃りの激しい時代にあっては、色・味・デザイン・素材等々、既に職人という個人的努力では対処できないところまで来ている。飾職人だけの世界に限定しても、正確に製品を創り上げる技術だけではなく、新しいデザイン力や、ビジネスセンスが必要とされている。しかし職人は、依然として変わることなく、昭和の中で同じことを繰り返しているのである。

横山

 志摩半島でこの一つという眺望を上げるなら、間違いなく横山からの風景であろう。しかし良いからと言って、全てが満たされているわけではない。近からず遠からず、絶景なのであるが、不思議と旅情を感じさせない。もし旅に来られて、ある日・ある時、この一つをと言われるなら、間崎島の港近くからの夕景であろうか。他にも絶景スポットは数多くあるが、一様にして、旅情も郷愁も追憶すらも呼び覚ますことの難しい何かがある。

 異論もあるだろうが、本来この志摩半島は、ことほど左様に明るい土地柄なのである

畔蛸(鳥羽)

 (あだこ)地名であるが、普通これは読めない。昔まだ自然が豊かであった頃、蛸が海から田の畔まで上がってきたことから、この地名が付いたといわれる。都会から移り住んだ人や、山間部の人は「そんな大げさな」と言って信じようとはしないが、恐らく本当のことであったと思う。昭和の30年代の頃、岩場の潮だまりにいた蛸が、海水が温かくなりすぎて、海へ戻る途中、熱い岩の上で足をくねらせて、蛸踊りのような格好をしているのを見かけたことがある。この話も、未だ誰にも信じてもらえないが、本当の話である。

 蛸に纏わる話が志摩には数多くある。昔、まだ土葬であった頃、棺を埋めた上に土を盛り上げ、野犬などが荒らさないように割った竹を半円形に突き刺し、更にそ上を網で覆って墓を守った。しかし海岸沿いの集落ででは、野犬ではなく大蛸が海からやって来て墓を荒らすため、その防御策として竹を使ったのだということを、海の近くにある寺の住職から聴かされたことがある。すべからく自然が調和にあるとするなら、事の真意は別にして、案外、火葬が普及するに従って、死者を喰っていた大蛸も滅びていったのかもしれない。

志摩の方言

 古い言葉で、「あじゃ何じゃてて、ああじゃらこうじゃら言うたてて、ぼぼしのくせしてはざんてや、ぐんそたんご被ってずべっとれの」志摩地方の人以外には分かってもらえないと思う。意味は「お前な、何というか、ああだこうだと言ってみたところで、色事に狂って良くないぞ。肥桶被って腐ってしまいな」というような意味合いか。

 なかなか手厳しい言い回しであるが、微妙な間と抑揚があり、然程感情に突き刺さるものではない。寧ろ現在使われている言葉の方が、とげとげしく人の感情を傷つける

盆踊り

 一昔前までは、盆踊りといえば寺の境内で、というのが案外と多かった。盆踊りを観ながら、寺の堂内から聞こえてくる御詠歌やリンの音には、身体の奥にまで響いてくる哀調が感じられたものである。しかし最近はジャズやロック音楽での踊りや、よさこいソーランまで飛び出してくる地区がある。悪いとは思わないが、御先祖様の霊も、久し振りに我が家へ帰って、しみじみと感慨に耽るという訳にはいかない。此の世の夢は何時も夢の中。

 明治ばかりか、昭和もお富さんも大八車も、今となっては記憶の彼方の話なのである。

きんこ芋

 なまこ・さつま芋等を一旦炊いてから天日干しにしたものの総称であるが、今では一般的にさつま芋の干したものだけを言う。大きいものは半分、若しくは四分の一にカットする。地域によっては餅のように臼でついてから、四角や俵型にして干した。この場合、麦芽を使う地域と使わない地域とがあり、味は其々の家によって微妙に異なる。

 昔使われたものと現在使われている芋とでは、さつま芋の種類が違うものの、味は素朴の一語に尽きる。誰にとっても懐かしくはあるものの、決して絶品というものではない。

スッポン

 先年、従兄弟から大きなスッポンを貰った。ウナギなら何とか捌くことは出来るが、スッポンとなると、その首を落とすのに躊躇いが生じる。そんな訳で一年余り飼っているのだが、頭が良いのか慣れたのか、水面から首を出して、まん丸い目でこちらの様子を窺う。まだ手渡しとまではいかないものの、餌を持っていくと首を出して近付いてくる。

 こうなると、もう食えない。ポンちゃんの名前をつけたが、飼い主に似て、幾らか肥満傾向にある。しかし、俺が料理するという奴が出てこない限り、当分の間は安泰である。

志摩観光ホテル・クラシック

 フランスの詩人による(秋の陽の如く 夕陽の如く 束の間は優しさたれ)とは「秋」の一節である。夕陽には、その美しさの中に、名状し難い憂いが潜んでいると感じるのは私ばかりではないようだ。もし車で行って珈琲をというなら、志摩観光ホテルの二階にあるラウンジをお勧めしたい。それも秋の夕陽が観られる時間帯が良い。遥か山並みの彼方から、真っ赤な光が飛び込んでくる。テーブルの上には珈琲。私も風景の一つとしてある。

 光と沈黙と珈琲の香り、そして沈黙。「孤」の私を中心にして、至上の時が流れていく。

カンヌの5番

 志摩観光ホテルでゴブラン織りを展示販売していた女性との話の中、コクトーのカンヌ5番が出てきた。若い世代には馴染みのない詩であるが、団塊の世代で読書好きな人なら、誰でもが一度は出合ったことのある詩である。人は自らの人生の歩みの途上、様々な音を心に刻んでいくものである。裸足で踏みしめた砂の音、境内に落ちる椎の実の音、松林を吹き抜けていく風の音等。幾度も聞いているのであるが、あの日のあの時の音が、折に触れて何故か甦って来る。5番は、たった一行(私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ)と詠う。

柱状節理(熊野)

 東尋坊・材木岩等色々な名称で観光スポットになっているが、何れも柱状節理による岩壁である。火山列島の日本にあっては然程珍しくはないが、熊野にある海金剛は些かそのスケールが違う。海面から見上げるということもあるが、圧倒的な威容を誇る。そもそも熊野界隈に点在する観光スポットは、熊野大社・那智の滝・七里御浜・海金剛等、その多くが特大サイズなのである。近くまで車で行けるが、海金剛だけは観光船か地元の船をチャーターしないと行けない。熊野には南方熊楠の世界が、昔のまま今も広がっている。

砂浜逍遥(浜島)

 志摩半島にも美しい白砂の海岸が幾つもある。国府の白浜・阿津里浜・御座の白浜・南張海岸など、他にもたくさんあるが、個人的見解として、その何れもが人工的な俗っぽさを感じさせる。全国に隠れた秘湯があり、密かに出掛けて行って、一人で楽しんでいる人があるように、私だけの砂浜というのを見つけてみてはどうだろうか。車の速度のなかでは気付かないが、ほんの少し歩けば、案外近くに然程大きくはないが、私の「孤」を感動させてくれる砂浜がある筈だ。ある日の夕刻、磯笛峠を見上げながらの思いである。

蕎麦今昔

 昭和の30年代までは、志摩でも結構蕎麦が作られていたように記憶しているが、最近は車を走らせていても、ほとんど蕎麦の花を見掛けない。そんなこともあってか、蕎麦の専門店も少ない。ラーメン・うどん・パスタ等にこだわりを持っている御仁には出会うが、蕎麦に関しては稀である。もともとこの志摩地方に於いて、蕎麦は空腹を満たすためのものであって、究極の蕎麦談議に花を咲かせるほどの文化にまで発展しなかったのであろう。

ちなみに、蕎麦は(食いに行く)のではなく、手繰る。蕎麦を(たぐりに行く)のである。

すらね

 志摩地方の一部では、寝た振りをするのを(すら寝)という。まだ私が幼かった頃、母親から言われた用事がしたくなくて、すら寝をしていると、必ず看破られた。何故か分からないまま、同じことを繰り返したが、結果は同じであった。そんなある日、うつらうつらしながら眼を開けると、口を少し開いた顔が鏡に映っていた。ははん、これだと思って、それからは口を少し開いてすら寝をするようにした。それから暫くの間は母親を騙せたが、それも直に見破られた。母親の子を観る眼差しの確かさには、形を超えた何かがある

ほいと

 ほいととは乞食のことである。(ほいともヤクザも人の子、分け隔てをするな)というのが母親の信条であった。しかしそう額面通りにはいかないのが人間である。小さな集落の中で、優越感や差別を果てしなく繰り返し、命果てるまで止めようとはしない。都会を離れて、田舎暮らしなどと考えない方がいいのかもしれない。田圃の蛙が喧しいように、集落に代々住みつく雀の嘴の煩いことこの上ない。釈迦の教えから2500年、人は何処へ行こうとしているのか。そして分け隔てが消える時、集落はまだ残っているのだろうか。

うねり

 畑の畝のように、うねうねと連なっているから、うねりなのだという説がある。波切の港を出て、暫く沖に向かうと、真っ黒な潮の流れ、黒潮に到達する。その名の如く、真っ黒な色をしている。海岸に打ち寄せる波とは異なって、長いものでは数百メートルも長さに及ぶものもある。好く晴れた日、船上から海中を覗き込むと、光と共に海中へ引き込まれそうな幻覚に襲われる。うねりの谷に船が下がると、眼前には真っ黒な壁が迫って来る。

 畝が先か、うねりが先か。何れにせよ此の世界に始めからあるのは、うねりの筈なのだが。

船酔い

 瀬戸内海のフェリーで酔い、伊良子鳥羽間のフェリーで酔い、サンフラワーで酔い、熊野灘での魚釣りで酔い、船の上では全く様にならない。そもそも左右に揺れながら上下にも揺れるという、あの奇妙な感覚は、私にとって如何とも受け入れ難いものである。仲間は「女にも酔って大変だ」と言うが、それは船酔いのような悪酔いではない。しかしよくよく考えれば、自らの魂が消滅してしまったようなことがあったことを思えば、或いはそれも悪酔いなのかもしれない。事の是非はともかく、遠い日の懐かしい記憶の断片である。

磯笛峠(浜島)

 昔は断崖絶壁の中間あたりに、細く曲がった道が通されていた。今はトンネルが出来て、行き交いは随分楽に成ったが、旧道は現在も車で走れる。その中ほどには小さな公園に整備されており、ツバスの鐘と展望台が設置されている。センサーが作動して、何処からか磯笛が聴こえてくるようになっているが、幾らかしつっこさを感じさせる。

 遠い日、母はこの峠道を越えて行き、そしてこの峠道を私と帰ってきた。その日から60年余りの歳月が流れ、母の思いも私の記憶も、何もかもが潮騒と共に消えていった。

大山玉宝美術館(志摩町)

 志摩半島の先端近くに、大山玉宝美術館がある。展示物の中には、130年余の歳月をかけて作られたといわれる香炉、龍鳳大薫(高さ92,7センチ・重量30キロ余)がある。清代の皇帝のものであったが、人類が到達した細密工芸の極致と言える。厳然として輝きを放つ様は、他の追随を一切許さない威厳と気品に包まれている。

 鳥居の向こうの存在に、合掌して何かを期待するのもいいが、一度この美術館を訪ねてみては如何だろうか。恐らく至宝の真の意味と、芸術の果てしない可能性を感じる筈だ。

青峯山

 鳥羽市と志摩市の境に、青峯山・正福寺がある。昔、志州の国には過ぎたるもの、と言われていた、その一つがこの正福寺の山門なのである。建立された当時には、美しい彩色が施されていたのであろうが、今は剥離して木地がむき出しのままである。どっしりとした木組みに、繊細な彫刻が施され、往時の隆盛が偲ばれる。その山門をくぐって境内に立てば、樹齢数百年の杉木立が、静謐な沈黙の時間へと「私」を誘う。名刹のわりには訪れる人も少なく、仕事で忙殺され、忘れていた「私」の時間を取り戻せるかもしれない。

南張

 浜島町南張。(南張メロン)で有名であるが、この地区に楠神社がある。この神社に祀られている神様は、古くから子授けの神様として、近郷近在の人に信仰されてきた。社殿は小さく、のたくり込んだら向こう側という感があるものの、その御利益は絶大で、子供の出来なかった多くの夫婦の願いを叶えてきた。この神様に子が授かるように願い事をして出来た子には、そのお礼として(楠)の一字をいただいて名前を付けるのが習わしである。

 もし子供が出来なくて悩んでいるお二人がいるなら、お参りしてみては如何だろうか。

志摩の巨木

 志摩一円の神社・寺・山をくまなく歩いて、巨木の調査をしたことがある。残念ながら志摩には、感動するほどまでの巨木はない。楠の木のように根元が異常に太いものを除けば、眼通し4メートル余である。幾つかを上げれば「伊雑の宮の楠の木と杉、鵜方・棲鳳寺裏山の楠の木、御座・潮音寺の前の松の木、御座神社の椎の木」と言ったところであろうか。そんな中、あえてこの一本をと言うなら、布施田・薬師禅寺境内の松。胴回り2メートル余で、巨木・古木の類ではないものの、手入れの行き届いた名木と言える。

御座の地層褶曲

 御座白浜の近くに、波によって削り取られ、剥き出しになった地層褶曲の観られるところがある。三重県の自然文化財には指定されていないが、野見坂の地層褶曲とは異なり、手に触れることもできる。しかも露出している部分は、野見坂のものより遥かに大きいと思う。志摩市内の人にもほとんど知られていないし、地元御座の住人達も、それが極めて稀なものであり、重要なものであることに気付いていないのではないだろうか。もっとも、人一人ひとりの人生の褶曲を思えば、大地の歪みなど然程驚くほどのものでもないか。

松風

 松林を吹き抜けていく風には、追憶を誘うえもいえぬ趣がある。以前国府の白浜一帯は、松の大木で覆われていたという。戦時中、軍の命令で全て切り倒されてしまったのだと、土地の古老に教えてもらった。現存すれば絶好の観光スポットになったであろうが、その当時切られなかった他の地域の松の大木も、台風による倒木や松喰い虫によって枯れてしまい、胴回り4メートル余のものは、潮音寺前にある一本を残すのみである。海岸に古松のある風景。その風景に趣が無くなったのは、古松が消えたせいばかりではないのだが。

水平線

 志摩市は水平線の街である。眼前一面海と空で成す水平線ではなく、左右の岬の間から観える、いわば手のひらサイズの水平線が良いのだ。小高い丘の上から、或いは小さな砂浜を歩きながら、自らもその風景の一つとなって、暫し心遊ばせてみたらいかがだろうか。目まぐるしく移り変わっていく日や時代の中にあって、ただ(観た)(食った)という観光ではなく、ほんの片時、日常的思考から離れ、「私」を解き放ち、自らが風景の一部として逍遥するのも良いのではないか。潮騒と追憶と人生の旅は、砂に残された足跡の中にもある。

キーウイ

 キーウイの木が一本ある。毎年900個余りの実を付ける。収穫はするが、自分が食べるのは1,2個で、ほとんど知人や友人に配ってしまう。それと言うのも、何時まで経っても同じ色をしていて、食べる頃合いが難しく、つい腐らせてしまう。それならいっそのこと、と言う次第なのだが、要は食べ頃を確認してというのが面倒くさいからなのである。今年は剪定し過ぎたのと春の嵐、それに烏の被害とで300個程度であるが、実は大きい。

 何事にもタイミングがある。不思議なことに、毎年収穫した時にやって来る知人がいる。

人の様

 昔は餅つきに使う臼は、松の木か欅の大木で拵えてあった。しかし杵の頭は何故か柿の木のものが多かったように記憶する。何か理由があるのだろうが、私は知らない。ちなみに、金槌と鑿の柄は柊、鋸の柄と太鼓のバチは桐、すりこぎの棒はサンショ、櫛と根付は黄楊。しかし何が何でもという訳ではなく、その状況によっては別のものを使ってきた。げに墓に供える枝はしきびだけではなく、椿や椎の枝を供える地域が今でもある。 人はこだわりながらも、成すことは自在。融通無碍というより、要は適当なのである。

もがり

 もがり笛のように、どんな話にも(うんにゃ)と反対して、人の意見に頷こうとしない類の人のことを(もがり)言う。話を楽しむことのできない人種で、些かうんざりさせられる。話が続かないのだ。1から50までの数字の一か所が間違っていても、全体が理解できれば、何が言いたいのか充分話は通じる。人が何を話したいのか考えることもなく、部分的な指摘によって、話の全体を頓挫させてしまい、話が意味のない日常へと転げ落ちてしまう。年老いて、ゆっくり「私」の話をすることのできる友のある人は、それだけで幸いである。

帰依

 (仏門に帰依する)というような使い方をするが、人は多くの矛盾の果てに、御仏の下へと帰っていくのである。究極に於いて、自分という(私)を語ることのできる相手は、もう一人の私だけなのだと気付いた時、人は静かに「孤」の世界に頷き、全ての人から離れていくのである。私が私の時間の中で泰然自若としてある。要は他人の言葉や生き方に惑わされることなく、自らの生の領域を楽しみ、日々の時間と融合することを楽しみ、それを人生の終わりの日まで繋げていく。そんな人に痴呆や自殺の運命など、あり得よう筈もない。

蒼穹異変

 追憶の中で青空が遠い。智恵子抄の一節に(安達太良山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子の本当の空だといふ)というのがある。歳のせいでもないのだが、昭和30年代までの青空の色が、今の青空には無い。そんなふうに何もかもが本来の色調を失って、この世界は滅びていくのだろうか。薄らぼんやりとした空の下、薄らぼんやりとした感情を抱いて人は行き交い、その生涯に於いて何も見出せないまま、この地上を去っていく定めであったとしても、せめてこの世界が終る時は、真っ青な青空であってほしいものだ。

ウツボ

 志摩半島の一部では、ウナギと言えばウツボなのだという地域がある。このウツボ、全身の模様もさることながら、その凄まじい顔を見た暁には、およそこいつを喰うという発想を抱く人は少ないであろう。しかしその姿とは裏腹に、事の他美味いのである。一夜干しにしたものを、焼いても薄く衣をまぶして唐揚げにしてもいい。ただ尻尾に近付くにしたがって骨が多くなり、薄く刻まないと食べられない。オコゼもそうだが、一見姿の悪いものに美味いものが多い。ただ気の狂れた田舎のサルは如何ともし難く、食指は動かない。

修羅の形相

 人の顔の全ての皮膚が震えているのを一度見たことがある。およそ修羅の形相でも、これ程までに凄まじいものではないだろうと思える形相であった。哀れでもあったが、可笑しくもあったと感じたのは、私ばかりではなかった筈だ。代々に流れる業の血が成せる故のことか、それとも憎しみか。何れにせよこの地上を去っていく時、同じ顔を子供達に残していくであろう。一度表に現れたものは、病であれ、気狂いであれ、子孫に受け継がれていくものである。歎異抄に言う(善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや)と。

香り

 線香の匂いのする洋梨をくれた人がいる。匂いには鈍感なのだが、食い物のこととなると話は別。要は食い意地が張っているとでも言おうか、その物が今までどのような状態にあったのか分かるのだ。今となっては遠い日の話になってしまうが、知人から洋梨をいただいたことがある。スーパーマーケット等で売られているものと比較すると、正に似而非なるもの、大きさ・形・香り、絶品なのである。それ以来、果物を人にあげる時は気を付けるようにしている。その知人とも10年余り会っていない。元気にしているのだろうか。

忘却 (1)

 物忘れがひどくなった。仕事のことは極力メモをするようにしているが、それ以外の事柄は、自分でも感心するほど見事に忘れる。痴呆か悟りか、自己診断は悟りとしている。事の真意はともかくとして、今までは客と話をしながら、或いはラジオを聴きながらでも充分に仕事が出来た。しかし、今はそのどちらか片方しかできない。思えば、一昔前までは痴呆症の老人等、一つの地区に一人居るか居ないかの程度であったことを思うと、随分と人の心も荒廃したものだ。現代社会には、ごく当たり前に有った安堵感が喪失している。

忘却 (2)

 子供達も成長して家を出て行き、老いた自分達二人の世界。しかしそこには若い時のような体力も、重ねてきた歳月を語るべき言葉もない。そんな二人の前に、厳然と姿を現すのは孤独である。二人で紡ぎあげてきた時間には、果たして何の意味があったのか、そして(私)は一体誰なのか。沈黙と孤独に支配された中にあって、珈琲カップから立つ湯気も線香の煙にも大差なく、眼の前にいる相手も、永遠に遠い幻視の風景でしかない。私の住むべき世界はこんな世界ではなかった筈。(私)を捨てて、私は忘却の世界へと旅立っていく。

料理と調理

 料理と調理、料理人と調理師。この違いはどこにあるのだろうか。レシピ通りに拵えてみても、それらしき物、いわゆる(もどき)なのである。決して不味くはないが、何かが違う、何かが足りないのだ。個性の時代と言われる現代社会にあって、様々な人に出会い意気投合し、或いは衝突を繰り返す。皆其々に(その人)なのだが、構えて「個性」に思いを馳せる時、それは個性ではなく「我」だけの塊であり、背景が見えてこないのである。恐らく料理も同じことで、そこに個性が加味されていない限り、感動の微塵すら感じさせない。

忘却 (3)

 自らの生の終わりを如何に結ぶのか、難しい問題である。しかし多くの人は、いずれ死ぬ時がやって来るとは思っていても、まだ先のことであると思っている。だが死は常に間近にあることを忘れてはならない。肉体の死があるように、精神の死もあるのだ。近年インフルエンザの如く増え続けている痴呆等は、まさに精神の自殺なのだと言わざるをえない。何故それほどまでにして、虚しい時間を背負って肉体だけ生き続けなければならないのだろうか。生きてきた一切の記憶から離れ、自らという(私)すらも失われてしまっている。

山海経

 中国の奇書である。そこに書かれている魚は(手や足があり深い森に住んでいる)とある。さながらSF映画やコミック漫画に登場してくる地球外生命体ではなか。しかもそんな話が延々と綴られているのであるが、日本にも百鬼夜行の話に出てくる鬼や化け物の姿は、それに負けず劣らず奇怪である。現代の人々に失われているのは、そういったモノを生みだす想像力であり、それを楽しむ精神のゆとりなである。しかるに何を間違えたのか、自らが百鬼夜行の仲間に成り果ててしまっている。今夜もどんな顔をして散歩するのだろうか。

フウ樹(相可)

 相可高校の近くに、フウの大木がある。この木の樹液を漢方では薬として用いたとあるが、秋にはイチョウの黄色ともカエデの紅とも違う、独特の色合いをした黄葉が楽しめる。

 相可は旧伊勢・熊野街道の要衝の地にあり、界隈には古寺や旧家が残されており、往時の繁栄の面影を今にとどめている。国道(42)以外の道は幾らか狭いが、新旧の家屋が風情のある町並みを醸し出している。しかも鮎の甘露煮・お餅・みたらし団子・和菓子等、グルメには堪らない土地でもある。伝統に裏打ちされた(本物)がある町というのがいい。

祈願の杉(丹生)

 相可から櫛田川に沿って、旧道を辿って上流へ向かうと、丹生の大師(丹生山・神宮寺)がある。弘法大師が、自らの姿を彫ったといわれる像が祀られているお寺であるが、その境内に祈願の杉がある。驚嘆するほどの大木ではないものの、何かしら無尽蔵なまでの言葉を内包しながら、それでも沈黙しているような、そんな思いを抱かせる不思議さがある。〈生まれ来て独り、旅にあって独り、去っていく時も独り〉とでも言いたいのか、大師堂と祈願の杉との間の石段中程で、いつの時代も上るべきか下るべきか「私」は迷っている。

六地蔵堂(丹生)

 神宮寺の境内に珍しい形の六地蔵堂がある。円形の石柱の上に、六角形の御堂が載っかっているという、まさに案山子のような様なのである。しかし小さいとはいえ、細部にまで手の込んだ造作がなされており、建築物としては一級品である。多くの人は直ぐ隣にある大師像や石仏〈六地蔵〉の前で合掌するが、近付くと幾らか見上げる高さに位置するせいもあってか、一瞥する程度である。柱以外、御堂の全体は六角形になっており、中空に浮かんでいるように見えなくもない。地蔵菩薩は何時もお堂の中におられるのだろうか。

丸森の大イチョウ(宮城)

 大木。それは其処にあるというだけで様になるかと言えば、必ずしもそうだとは言えない。やはりその樹の姿と、周囲の環境とも相まってこそ、一幅の絵になる。丸森町〈宮城県〉に、一度観たら忘れることのできない大イチョウがある。道路から田圃を隔て、山を背景とするが、黄葉するとイチョウの樹そのものが山のように感じられる。それにもまして、極めて立ち姿のいい大木である。個人的な見解であるが、寺の境内や墓地、神社や城などにある樹には感動しない。長い歳月を旅してきて、まだ途上なのだという感じがいい。

祟りの樹

 志摩市内に、その樹に触ると眼の病を患い失明すると言われている樹がある。樹種は分からないが、常緑の広葉樹である。民家の敷地内にあり、道路と接している。伐ろうとする者や、伐った者に祟りがあったという話は全国津々浦々にあり、頷く程度のことで気にも留めないが、触るだけで眼に祟りがあるという樹は珍しい。一度だけ見たことがあるが、その謂れの所為か、土地の人は道路に落ちている枯れ枝にさえ触れようとしない。案外、樹も人も家も触れることはおろか、関わりを持たない方が賢明な場合があることは確かだ。

血脈

 大きな街にあっては、その一族が一か所に住んでいるということは稀であり、判断しにくいが、こと田舎となると、一つの家の血脈を辿ることは簡単である。その親戚について根掘り葉掘りするよりも、病について聞くと、いとも容易く結び付いていくのである。ある種の病は、環境よりも寧ろ血脈によるものがある。憎しみを抱いている者の眼が、常に卑屈であるように、当事者には分からないであろうが、同じ病の臭いがするのである。その臭いは言葉に変わり、何か一言いわなければ気が済まない病の種子として受け継がれる。

百日紅

 風もないのに、何となく揺すれているように見えるので〈ゆすれの木〉とも言うらしいが、根幹部分が虫害で腐り、根元が安定しないために、少し強い風が吹くと倒れることがある。何となく人の生き様を現しているようで、捉え方によっては無常の漂う木である。開花期間は長く、まだ咲いているという思いにさせるが、ふと気が付くと、既に終わっている。宛ら絶頂期の人と同じで、他人は羨望の眼差しで見詰めるものの、或る日、ふと気が付くと倒産していたり、病を得て既に亡くなっていたりする。やはり無常の木なのだ。

志摩の石工

 志摩半島には彫刻のできるような硬質な石材は無い。そんな中、古くから大王町波切地区に、高度な石工職人の技術が受け継がれてきている。しかし志摩では、その芸術的な石積を見掛けることは少なく、他所の土地でしか見ることが出来ない。単価の問題であろうが、ありふれた間知石による石垣の連続というのも味気ない。500年はおろか、1000年の未来に残るような石積を残していくのも行政の文化的知力ではないだろうか。どのような領域であろうとも、時間と金を惜しんだものから、普遍性を見出すことは出来ない。

ずんどろべ

 志摩地方の方言でサルトリイバラのことである。ずんどろべ・ごんたろ等、様々な言い方をするものの、方言の方がそのものをリアルに言い表しているように思えることがある。要は柏餅に使う柏の葉の代用として使ったのであるが、今ではイバラ餅として一般的になっている。ただ如何に方言の方が味わい深いとはいえ、ずんどろべ餅では、さすがに甘党の私でも食指は動かない。もともとはメリケン粉の生地で餡子を包み、更にその表面をイバラの葉で包んで蒸しただけのもので、およそ餅菓子と言えるような代物ではなかった。

山寺(山形)

 法珠山・立石寺。登り口の受付で手荷物を預かってもらい、二日酔いで頭の芯がズキズキするなか、雪で凍った石段を上まで登ったことがある。降り積もった雪のせいもあってか、ほとんど訪れる人もなく、納経堂・五大堂への雪道には難儀した。多くの堂塔伽藍は雪に包まれ、芭蕉の句の世界よりも更に深い沈黙の世界が其処にあった。しかし登りにもまして更に大変なのが、凍った石段を下る時で、俯けば頭が痛むし、顔を上げれば滑るし、結局上りの倍以上の時間がかかった。何事も季節外れには好さもあるが、概ね難儀する。

西公園(仙台)

 秋。陽も傾きかけた頃、「ふたり」に出合った。ベンチに若い女性二人が、背を向けて反対向きに腰掛けているブロンズ像である。仏像ほど興味は無いが、この「ふたり」の彫刻は何故か記憶に残っている。全く反対の方向を向いていて、それでいて調和が保たれているのだ。もう少し設置場所に配慮すればと感じたが、余計なお世話か。近くに茶屋があって、初めてずんだ餅を食べた。粗く潰した枝豆に味付けをして、搗きたての餅の上にかけてあるというだけの物で、餅と枝豆がよそよそしく、しかし「ふたり」のようでもあった。

日本本命真珠協会

 人には病強い人と、病弱い人とがある。生死の境を彷徨うような病気をしても、退院した翌日からダンプカーを乗り回したり、船に乗って沖合遠くトローリングに出掛けたりする人がいる一方、つい最近まで元気に仕事をしていた人が、風邪をこじらせて呆気なく逝ってしまうこともある。日本本命真珠協会の会長である「松尾昌男」氏。並みの人なら健康管理に明け暮れ、楽隠居といったところであるが、稀にみるタフガイである。口を開けば弁解と昔の自慢話しかしない諸氏とは一線を画する。達観による無欲故の行動力なのか。

連理の枝(相可)

 二本の樹が根元、あるいは枝によって合体している様のもので、古くから男女の不思議な縁と重ね合わせてきた。「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」と白居易は詠ったが、現代は一方的な思い込みによるストーカーの時代である。余談はともかくとして、相可の両郡橋の近くに連理の枝を成す樹がある。しかも三ヶ所も繋がっている極めて珍しいものである。上段の二ヵ所はかつらの類が絡まっているのと、高い位置にあるため確かではないが、樹と樹のこととはいえ、凄まじい執念のようなものを感じる。

極楽山・西方寺(宮城)

 仙台駅から車で1時間程の所に、極楽山・西方寺がある。堂塔伽藍は無料で拝観できるが、五重塔へは入堂できない。関西ではあまり知られていないものの、一生に一度の大願を叶えてくれるということもあって、多くの参拝者で賑わっている。山門の彫刻は、彩色された東照宮のようなきらびやかさは無いが、見事の一語に尽きる。然程広くはない門前の道路両側には、様々なお店が軒を連ね、蕎麦・油揚げ・豆腐・ゆべし・こけし等の名物や土産物が売られている。一度、大願を叶えてもらいに車を走らせてみたら如何だろうか。

深野の棚田(松坂)

 日本棚田百選の一つに、深野の棚田がある。全体で三百万個以上の石が使用されていて、観る位置によっては、まさに石の壁である。概ね人家は棚田より上にあり、寺の近くにある駐車場まで車で行ける。もし行かれるのであれば、一つ奮起して、下から上っていくのをお勧めする。ただ極めて急峻な坂道で、ヒールの高い靴で上り切るのは難しいように思う。昨今、様々な地区で村興しや街づくりをしているが、この地区の棚田の石積を一見すれば、小手先の街づくりや賑わい等、木っ端微塵に吹っ飛んでしまうことに気付く筈だ。

脳天大神(吉野)

 金峯山寺の搭頭の一つに脳天大神社(龍王院)がある。本堂近くの石段を下っていくのであるが、此の石段、気を抜くと転がり落ちてしまいそうなほどの急こう配である。首から上のことについての願い事を叶えてくれるということで、最近はボケ封じのお願いにお参りする人もいるとか。私も急速に砂漠化してきた頭の毛が、僅かなりとも何とかならないかと、頭を水に打たれてきた。酒・煙草等、身体に悪い日々を重ねて、今さら頭の毛の願い事など身勝手か。しかしボケたくないなら、脳天大神の御力を信じても良いのではないか。

目神(玉城)

 目の神様が祀られている。他の神社と異なって社殿は無い。石垣にくぼみを拵えて祀ってあるというだけの、極めて簡素なものである。しかし古代の人々が巨岩や大木に畏怖の念を抱き、崇めてきたことを思えば、それで良いのかもしれない。況してや現代のように、徒に絢爛豪華な社殿を構え、「どうだ」と言わんばかりの神社の神様と比べ、案外大きな御利益があるのかもしれない。日本の神話では、イザナギの左目から天照大神、右目から月読の命が誕生したとある。親を蔑にする風潮がある現代社会、親神を忘れてはならない。

昇龍の松(鳥羽)

 女性の願い事を叶えてくれるということで、最近人気のある神明神社の境内に、(石神さん)が祀られている。パワースポットブームと相まって、若い女性にはなかなかの人気である。その神社への登り口にある駐車場横に、昇龍の松がある。参拝客の多くは気にも留めないで神社へ向かうが、手入れの行き届いた立派な古松である。石垣の向こうにあることから、梵潮寺域内のものであろうかと思える。何れにせよ、外海に近いところで、これ程の古松の大木が守られていることは珍しい。この梵潮寺には、樹齢700年の蘇鉄もある。

松風(秋田)

 松林を吹き抜けていく風には、ある種独特の風情がある。古の神々の語らいか、逝った人々の声無き声か。我が家の界隈にも以前は太い松の木が数多くあり、幾らか強い風が吹くと、その音を聞きながら物思いに耽る楽しみがあった。しかし近年、松くい虫による被害で多くの松が枯れてしまった。この事は志摩半島全体についても言えることで、風情ばかりか、風景そのものにも味わいが無くなったように思える。東北を旅した時に、田沢湖に立ち寄ったことがあるが、湖畔の赤松林を吹き渡る風の、何と旅愁を感じさせたことか。

石仏(多気)

 旧街道沿いでは、思わぬところで石仏に出合うことがある。そんな中でも妙に気になるる石仏がある。正確に言えば、石ではなくセメントで拵えてある仏である。三体あることから、釈迦三尊のつもりなのであろうと思えるが、そのお顔は何ともいやはやと言う感じで、なかなか味わいがある。幾度かカメラのシャッターを切ろうとしたものの、周囲の雑草が虎刈りで、絵にならないのである。刈るなら刈るできちんと刈るか、さもなければ草むしたままのほがいい。それなら自分が刈りに来いと言われれば、まさに身も蓋もない。

ウナギ

 あそこのウナギと言う話になると、九州であろうが東北であろうが、それなら今から行こうとと言う知人がいる。話だけではなく実際に行くのであるが、その付き合いは大変なのである。名古屋のホテルで食事をしながら、ウナギの話になって、それならば今から直ぐにと言うことでホテルをキャンセル、福岡にある某ウナギ店へ車を走らせることになった。確かに焼きも味も良く、関西風・関東風の両方を兼ね備えた絶品なのである。しかし私はそこまでウナギにはこだわらない。桜花の下、紅葉の川原での、その一杯を好むのだ。

ウナギ(大宮)

 ウナギ好きの知人の御蔭もあって、旅に出かければ必ずウナギ店へ入る。その土地その土地の味があって、甲乙つけ難いものがある。食べ合わせに(ウナギと梅干し)と言うのがあるが、梅干しが付いてくるところもあれば、明太子・ウナギの粕漬け・干し柿等、様々である。先日、仕事で大宮町へ出かけたとき、一見したところ余り見栄えのしないウナギ店へ入った。しまった、気の迷いかとは思ったものの、注文して暫くするとウナギが出てきた。何と陶板の上に蒲焼がのっかっているではないか。味はともかく、その心意気は良い。

商売と出來物

 過日、小ざっぱりとした料理店の主人が、面白いたとえ話をしてくれた。あれやこれやの話の中で(それでも、昔も今も沢山の御客があって、結構なことじゃないか)と言う仲間の話し掛けに、主人曰く(商売と出來物は大きくなると潰れる)とか。「商いと屏風は広げ過ぎると倒れる」の類なのだが、出來物とは恐れ入った。誰しも潰すために事業を拡大するのではないものの、結果的には広げ過ぎて失敗する。つらつら思うに、多くの場合、異性問題を除けば友人と親戚が足を引っ張るのが常である。こと商売に関しては疫病神なのだ。

磨崖仏(宇陀)

 寺の対岸の岩壁に大きな磨崖仏を観ることが出来る。余り輪郭がはっきりしない部分もあるので、カメラの望遠で覗いてみたが、やはりはっきりしない。臼杵の熊野磨崖仏のよな立体的なものではなく、壁面に沿って線彫りで現したものである。ぼんやりしたところがあるだけに、いま現れたのか、いまから去っていくのか、そのどちらとも捉えることが出来る感覚は、

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