浜島城主

 戦国時代の志摩の国には、13人の地頭と7島党と呼ばれる豪族が、めいめいの土地にこもって勢力を競い合っていました。

 浜島の小野田筑後は、7島党の一員で、英虞湾の入り口を直下に望み、遠くは紀伊の連山が眺められる美しい景色の城山に砦を築いていました。

 砦の内部は、本丸、二の丸、三の丸に分かれており、岬の先端に建つ城の姿は、さながら海に浮かぶ船のように見えたことでしょう。

 これ等、志摩の豪族は、海に生活の根拠を置いていたために、一般には海賊と呼ばれていました。海賊と言っても、略奪や違法行為ばかりをするのではなく、当時の海の役所を兼ねておりました。

 志摩の国は、東と西を往来する船が多く通り、それ等の船が安全に航海できるように、水先案内をしたり荷物の検査をしたりして、入港料や、通行料を取っておりました。そして、それに従わない船を懲らしめるために水軍を持っていたのが、海賊と呼ばれていたものです。

 リアス式海岸の英虞湾は、自然にできた小さな入り江がそのまま港として利用できるため、風待港や避難港として最適な条件を供え、入港する船も多かったと思います。

 この頃、熊野から来た九鬼氏は13地頭の一人として波切に勢力を伸ばしてきました。

 そして、九鬼嘉隆の代に磯部にも城をかまへ、付近の豪族を従えようとしたため、7島党の面々は「よそ者に志摩の国を取られて成るものか。」と怒って、これを攻め、嘉隆を志摩の国から追い出すことに成功しました。

 しかし嘉隆は知力に富んだ侍で、当時、全国制覇を目指す織田信長に取り入り、伊勢長島の一揆攻めに自分の水軍を参加させ、「海上所無し」と言われた織田軍の海上作戦で手柄を立て、志摩の国の支配を認められました。

 そして鳥羽を根城に、志摩の豪族を次々に攻め滅ぼして自分の配下にしていきました。

 小野田筑後は、最後まで反抗しておりましたが、鉄砲隊と訓練された水軍を持つ九鬼軍にはかなうわけがありません。早くに降参した豪族達が、「無駄な戦で多くの家来を死なすなよ。お前も降参したほうが良い。」と話を勧めてきました。

 浜島砦では、岩本、白富、森、柴原、山崎の5家老を始め、重臣が集まって相談しました。

 「信長公を後ろ楯にした嘉隆殿に、反抗しても犬死にするだけだ。」

 「志摩の国は、既に嘉隆殿の支配するところとなっている。」

 相談の結果、九鬼家に従うことに決まりましたが、一部の侍の中には、「九鬼の家来になるくらいなら、死んだほうが良い。」とあくまで戦争を唱え、大崎半島の大口に陣を張って抵抗し、全員討ち死にをしてしまいました。

 そして浜島を最後にして、志摩の国は九鬼嘉隆の支配するところとなりました。永禄13年、嘉隆28才のことです。大口の古戦場跡には、戦死した侍の墓碑が残っており、そこに立つと、さ迷う悪霊に身の毛がよだつ思いがしたそうです。

 その後の筑後については、九鬼家と縁組を結び、九鬼豊後と名前も改めて、九鬼家のために尽くしたと言われています。

 また別の説には、小野田筑後と九鬼豊後とは全くの別人であるとする説が有りますが、九鬼嘉隆が統治するようになった時代からは、浜島の領主は九鬼豊後が取って変わったようです。

 海賊大将となった嘉隆は、志摩の水軍の長として織田方の戦に参加し、九鬼水軍の名を高めました。

 また信長の死後は、秀吉に従い豊臣水軍の大将格になり、各地の戦に縦横の活躍をしました。中でも朝鮮の役のときは、大湊で造られた「日本丸」の艦長として参加し、手柄を立てて秀吉に認められました。

 九鬼豊後も敵船をぶんどると言う手柄を立てて、褒美の品を貰ったと言うことです。

 この日本丸の艦首には、檜山路から切り出された楠の木製の竜の飾りが、異彩を放っていたと言うことです。

 現在、保育所のある古城の元に残っている小さな墓地が、浜島城主小野田筑後を祀るものであると言われています。そして今も、盆の15日には岩本家に於いて施餓鬼を行ない、城主の霊を慰めております。

 九鬼豊後に付いては、九鬼嘉隆、その子守隆に家老として仕へました。その後、九鬼家の相続を巡る内紛によって、守隆の子久隆は兵庫県三田市へ、同じく隆季は京都府綾部に移封となった際に、隆季に随行したようです。

 明治13年の文部事務次官である九鬼隆一は、九鬼豊後の末裔であります。

 この九鬼隆一は、明治維新に遭遇して洋学の必要性を察知し、福沢諭吉の慶応義塾に入り熏陶を受け、文部少輔まで出世して「九鬼の文部か、文部の九鬼か」と言われるまてになったそうです。

 この人は特命全権大使として、アメリカに行ったりもしました。宮中顧問官、貴族員議員、男爵、枢密顧問官なども歴任したそうです。

 また、岡倉天心との親交を通じて、天心の妻との不倫騒動などが汚点として残っています。

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