越賀村

伊勢神宮の神領目録に『布浜(めばま)の御厨』とあり、光明寺所蔵承久四年(1224年)の文書に『布浜の検校伊福部の奥元』とあり、また志摩旧地考に『越賀村に字を布浜という地あり村の南方なる所にて東は字亀ヶ渕に接し西は字野里に南は大海の浜に接し北は字小津根に接したり、田畑山等ある広き地なり、今は越賀村の字なれども古きは一村に立ちし有名の地なり』とある。
越賀の発祥は布浜、野里、参宮浦、安津里の地域であろう。
布浜には検校伊福部奥元という貴族がいて村の権力者であったようである。検校とは物事の点検、勘校する官職である。今もこの地域に残る多くの古墳は権力者の墳墓であろう。古墳時代は四世紀〜七世紀であるから千数百年の昔の時代から栄えていた地域であるといえる。そして権力者だけが住んでいたわけではなく、統率される多くの村民が住んでいたことであろう。
昔から志州四ヶ津(津とは港のこと)といわれ、鳥羽、安乗、浜島とともに自然の良港でこの地方の漁師や沖を航行する船に利用されたことであろう。
越賀村も他の町村と同じく明治22年の町村制の施行とともに越賀村となり、明治29年志摩郡に属した。
面積5.26平方キロと志摩町内では最も広く、人口2,472人、戸数645戸を数える小村であるが農業を主として経営し今でも越賀ほどまじめに耕作されている地域は町内にはない。
越賀の人々は律儀で仕事は堅実、何事もじっくり考えて確実に実行していく粘着性をもっている。
ここの元の役場の倉には、江戸時代の古文書が数千点整然と保存されており村民性を物語っている。
『香木あまのたきさし』の伝統があり大要次のとおりである。
慶長の頃(1595年)西方参宮浦の海岸に流れ寄った木が香木(伽羅)で海女が焼いたところその香りは四方にただよったという。これを越賀城主から鳥羽藩主に献じ、さらに幕府へ、ついに天皇まで献じられてその明香をたたえられた。そして『あまのたきさし』(海女の焼左止)と名づけられたという。
越賀隼人三代にわたる城砦跡が残り、名将のなごりをとどめている。


人口
昭和30年
昭和35年
昭和40年
昭和45年
昭和50年
平成11年
世帯数
515世帯
530世帯
598世帯
609世帯
645世帯
731世帯
人口
2875人
2880人
2860人
2551人
2472人
1823


越賀演芸会

演芸会(敬老会)は青年団事業の重要事項として行い、敬老の精神を養うとともに自分達の演芸を披露し、お年寄りの慰労と、その中から文化活動が芽生え、歌舞伎、舞踊、新派、楽団等、時代により出し物は異なっても、脈々と現在に引き継がれております。その時代によって関係者のご苦労は大変であったことと思いますが、また成し遂げた喜びがあり、青年団事業と共に青春時代の良き思い出となっておられることと思います。

越賀舞台

<建造>
・嘉永2年(1849年)5月

<形状>
・入母屋(いりもや)造りで総瓦ぶき
柱と屋根組に用いられている木材は驚くほど大きく、その切込と組み合わせは巧妙を極め大ていの風にも地震にも、びくともしないであろうと思われる。
・間口13.25m、奥行10.70m
正面右側2階に浄瑠璃語りの席があり、その下手が囃子方の席である。

<歴史>
・嘉永2年(1849)9月12日 常舞台瓦ふき完了
・嘉永4年(1851) 越賀舞台落成
・嘉永6年(1853) 舞台屋敷南へ小正月26日若者どて(土堤)積立申候
・嘉永7年(1854)11月4日 津波、常舞台は神祇の加護にて無事

昔、村の神祭になると若い衆による地芝居や、名のある歌舞伎一座をよんで二晩三晩と芝居が続けられ、村中総出の見物である。年に一度のこの神祭は最大の慰安であった。
越賀では今でも神祭になると芝居が催される。

越賀神社

明治40年の合祀令によって各郷の氏神社を中央の日吉社に合祀し村社越賀神社として氏神となる。
昭和21年勅令第71号により社格廃止、宗教法人越賀神社となる。
<神宝>
・獅子頭、天狗面があり元西宮社の神宝であった。口碑に、朝鮮征伐の時、越賀隼人が持ち帰ったものと伝えられている。
・大鯨骨、字亀ヶ坂の夷社にあったもので口碑に、むかし字参宮浦へ漂着したものでこの地を今も鯨浜と呼んでいる。

弓引神事

神祭になると芝越賀では満20才になる青年6人によって(乙矢1人、乙矢脇1人、中弓2人、縁弓2人)古式ゆかしく弓引神事が行なわれる。麻裃を着て的を射る。この神事によってその年の豊年、海上安全、大漁満足を祈る。
現在は、過疎化により縮小化され行われている。

越賀城砦趾

<位置>
越賀城山

<時代>
室町時代から江戸時代初期にかけての城砦、14世紀代、越賀隼人(佐治姓)三代の城のあったところ。

<城趾>
面積はあまり広くはないが、東、西南は太平洋に断崖をなしている。北方の村との境に堀のあった跡がある。
現在の役場連絡所辺が役宅であったであろう。
城内には3ヶ所に井戸があったようで、一つは海蝕のため堤防の近くにそれらしい跡がある。
隼人一族は智勇兼備の名将で、一時は志摩中の地頭がここに立てこもって九鬼嘉隆に反抗したこともある。
鳥羽城主九鬼嘉隆の幕下となって豊臣秀吉の起こした朝鮮戦役に加わって手柄を立てている。和具の青山豊前とともに、志摩海峡(水軍)の双璧である。墓所は越賀普門寺にある。



越賀青年団の結成

江戸期は、若衆組と称し地域青年の集団はあったが、組織的なものではなく、村の自衛や海難救助に当たっていた。明治政府は富国強兵の一環として学校教育とともに青年教育にも力をいれ、青年組織の奨励を進めた。越賀村は、大正元年に青年団を結成し自己修養と社会奉仕を目的とている。このころの青年団員は小学校卒業と同時に入団させられ、村を離れた者も登録したため、会員数は多く、村の事業、海難救助には大きな力を発揮し、村の中核的存在であった。

青年団活動は、地域の文化、体育、両面の充実とともに地域にとってかけがえのない団体として大変重要視されてまいりました。他地区には類を見ない自主財源を持ち、自主的に運営されているのは、県下でも唯一の青年団であります。
 その時代の背景、社会状況により団の運営に多くの課題もあり、最近は過疎化による団員の減少など困難を極めていますが、伝統ある越賀青年団を。今後とも、若い人々の情熱と郷土愛と合わせて、地域の皆様の暖かい御厚情と御理解により何時までも守り続けて頂きますようお願い申し上げます。
大正元年(1912年)に結成されましたので、越賀青年団は、今年(2011年)で100周年です!
更なる越賀青年団の前進を心から期待します。



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