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Lorde


道を行くならゴール(究極)を目指してほしい。
道なき道は、道の為の道となり無限のループを表している。

武道においての究極は、不動の心である。
何が起こったとしても決して動かない心である。

不動心を創り上げるのは絶対的なゆだねである。
勝負事においては、勝ち負けが出てきます。
100%勝つなどと言う事はありえません。
もしそう思うなら慢心でしかないでしょう。

必ず勝たなければならないと言う心は不安を引き起こします。
不安があれば体は堅くなるのです。
勝った時、雄叫びを上げる、負けた時、落ち込むは、信じられないと言う心が起こさせているのであり、心の動揺であり
決してゆだねた心からは起こらないのである。
勝ち負けは100%が無い限り、コントロール出来ないのであり、自分で決められないのである。
だからゆだねるのである。
完全にゆだねた心は究極のリラックスを生むのです。
体は柔らかくなり変幻自在に

慢心から来る不動は、偽りである。
稽古をする事により稽古しないものより確かに強くはなる。
しかしそれはLv的なものであり、不動の心ではない、
柔術の稽古を3年したら、確かに強くなる。
町の素人には負けるはずがないは、確かにある意味自信に繋がっている。
不動心と錯覚してしまうのです。

例えば町で争いが起こるとする。
相手は自分より体が小さく、こちらは3年の柔術の稽古を積んできた、負けるはずが無い、自信に満ち溢れている。
闘いが始まった、直ぐにテイクダウンを狙いに行く、しかし相手は倒れない、おかしいと焦りが出てくる。
要約テイクダウンをとる。
呼吸は乱れている。
しかし相手はガードポジションから見事なディフェンスをしている。
相手は落ち着いている。
おかしい、おかしい、そして、心の内側でじっとこちらを見ている最悪を呼び込んでしまう。
それが恐怖である。
いくら稽古を積んでも、いくら筋肉をつけても、それらは外的要素であり、内なるものは何も変らないのである。
それは、階層が上がっただけで、なんら変りは無いのである。
月収30万円が、50万円に上がった様なものである。
生活レベルは上がるが、中身は何も変っていないのである。

そして、この階層は無限に続くのである。
しかし、人間の外への深求は止まらない。
外的要素は生まれながらにしてまずスタートラインが違います。
それらで、強いか弱いかは馬鹿げています。
それらを本当に強いと言えるかどうか?
しかしながら無常を知るうえで外側への深求が必要なのである。
外側への無常を知り内側へ向かえば、それらは意味のあるものに変ります。


俺は強いと言う慢心から来る不動、自信は、見事に儚く崩れ去るのである。
不動を起こすのは唯一、完全なるゆだねである。
完全にゆだねた心とは、マインドの完全停止である。
不安、恐怖その他の感情はマインドが引き起こすのであり、マインドが停止すれば何も起こらないのである。

これらを知らずに武道や格闘技、その他スポーツを志したとしても、それは、武道の為の武道となり、格闘技の為の格闘技となってしまう
それは自己満足の世界なのである。
武道を越える為の武道でなければ、武道に道に意味は無いのである。
それが無刀である。
無刀とは、刀を使う者が素手で闘うと言う意味ではない。
それは、十分にこだわれという意味とそのこだわりから抜けなさいという意味です。
目指すべきはまさにここであり、それ以外はただの過程に過ぎないのである。
例え世界チャンピョンになったとしても、それはただの過程である。
どんなに強いチャンピョンでも闘いの前のプレッシャーを感じずにはいられません。
喧嘩には強いが何かにおびえている。
喧嘩には弱いが不動の心を持つもの、どちらが強いと言えますか?
チャンピョンを育てる為の、チャンピョンになる為の道はただの自己満足に過ぎず、それは新たな道を築く無限のループを表すのである。
チャンピョンになるための道ではなく、道から抜け出す為のチャンピョンになる事に意味があるのである。
不動の心を持つものこそ、ループを抜け出したものこそ真の強者である。
それらを掴むのに実は道は必要ないのである。
しかしながら、それらが出来ないから道があるのであり教えがあるのである。
道とは歩くのをやめる為にあるのである。
諦めでは無い、諦めは未練が残り、それもまたループの中に居ることに成るのである。

道とは、道を越える為の道でなければならない。